日本画家・高山辰雄画伯
 生命を描いた日本画家

NHK Eテレビの日曜美術館(1月27日)で、日本画家の高山辰雄画伯 (1912-2007、大分市生まれ)を紹介しました。

 彼は、生命の根源的な姿を描こうとしたと言われます。私もこれを感じました 。 2,3指摘してみます。
 彼は、物を書こうとしておらず、その物が於いてある場所、心の根源的な場所 を描こうと努めていたと思います。版画で表現しようとした時、刷り方を版画の摺り師、尾崎正志さんに幾度も 刷り直しを求めたそうです。なかなか納得せず、人物そのものではなく余白をよく刷られたものを「いやーこれなんだ」と言ったそうです。
 人やものの周囲の「空気のような感じ」を描きたいといっていたといいます。 彼の描くものは、人や風景が周囲、背景の空白のような部分と境目を明確にして いません。やはり、物の於いてある心の場所とそこにあるものの萌芽の姿を描こうとしているのだと思います。ものと、自己の心の場所が一体です。西田幾多郎がいった、「内的生命の流れ」がある、根源の場所と、そこにあるものの分別以前の姿です。人も風景 も内的生命の流れに生じる映像だというのでしょう。
 彼の絵の黄色一色に見える部分を顕微鏡的に拡大してみると、赤や青の微細な岩絵の具 の粒が置かれているそうです。内的生命の流れ、いまだ色の区別の分別が生じてい ない「純粋経験」のところ、すべてがそこから出てくるところの生命の原像ともいうべきものを見えないようなところに表現しているように見えます。
 人は、世界の中で生きている、世界は自分の外にあるのではない、という哲学、自分は世界の中にある、世界は自分の中にある、そうした生命哲学を描こうとしていたように見えます。
 このように、東洋的哲学、西田哲学の視点から見れば、高山辰雄画伯が描こうとし ていた方向に類似するところがあるように思えます。高山画伯は、自己と自己が生まれ生き死に行く創造的世界の根源的な哲学を描いた人でした。そういえるのではないでしょうか。

 やはり、日本には、鈴木大拙がいった「日本的霊性」、西田哲学でいう絶対無の場所 、自他不二的根源の人格的自己、久松真一のいう東洋的無を自覚するひと、それを芸術的に表現し ようとする人が多いのですね。 ⇒この記事に書いてある人たちです。

 現在、大分で画伯の特別展が開催されているそうです。  見たいです。でも、埼玉から大分は遠いです、もうすぐ終わります、残念です。今度、どこか で開催されたら、見にいきたいです。