「自己洞察瞑想療法」の方法(概要)
対人恐怖(赤面恐怖)
他人の注目を浴びる場面や集まりなどで他人といること、話をすることをひどく恐れたり、自分がそのような場面で不安を感じていることを他人に知られることを極端に恐れる障害がある。社会的な場面を回避するようになり、人との交流が制限されて、自己の能力を充分に発揮できなくなる。本人は強い苦悩を感じているのだが、周囲からは「考えすぎ」「わがまま」とみられることもある。そのことで、さらに、本人の苦痛が増す。
このために、不登校、就職困難など、社会生活の阻害の程度がひどくなると、うつ病も発症する場合がある。
こうした社会不安障害は、種々のものがあって、対人恐怖とも、重複する。 社会不安と、対人恐怖は似た面もあるが、同じではないとされている。
日本では、対人恐怖症として、とらえられて、赤面恐怖、視線恐怖、表情恐怖、あがり症、などがある。
まず、赤面恐怖である。
内沼幸男氏によれば、対人恐怖に三つの中核群がある(1)。
- 中核群
- (A)赤面恐怖=(人前で食事できない、会議などで発言できないなどの症状を伴う人もいる)
- (B)表情恐怖=(表情恐怖、態度恐怖など、面目つぶれの恐怖)
- (C)視線恐怖=(他人の視線による被害意識、自分の視線で他者を傷つけた加害意識、罪の意識、自己嫌悪の意識、など)
中核群の三つは、相互に関連しており、赤面恐怖から、表情恐怖へ、さらに、視線恐怖に症状の重点が移っていくので、早い段階、つまり、赤面恐怖、表情恐怖などの段階で治療したほうがよいという(2)。
この3つのほかに、(D)あがり症も多いから、これも触れる。
この記事は、「(A)赤面恐怖」について述べる。(B)(C)については、別の記事で述べる。
赤面恐怖の症状
赤面恐怖には、次のような特徴がある(3)。
- 「人前で赤面することを恐れる」のが基本症状で、人前では話ができない、食事ができない、仕事(書く、計算する、など)ができないなど。(3)
- 「赤面はみられなくとも、赤面に匹敵する声のうわずり、ふるえ、発汗などの対人緊張となってあらわれることも少なくない」(4)
- 「対話の「間」(ま)、挨拶の「間」、そのほかさまざまな対人関係の「間」にどうしたらいいかわからずに困惑する。「間」があいたことに困惑して赤面し、恐怖する。(5)
- 家族のようなごく親密な人たち、逆に全く見知らぬ人たち(無関係集団)の前では起こらない。中間集団の人の前で起こる(6)。
なぜ赤面恐怖がおこるか
内沼氏は、対人恐怖を次のように分析している。簡単に記す。
「この状況を手がかりに対人恐怖を分析してみると、次の二点が浮きぼりにされてくる。
@「自」と「他」の意識の過剰
A「自」と「他」で構成される時空間的な「間」の意識の尖鋭化」(7)
「対人恐怖症者は、きわめて自意識過剰な人間である。患者は、自分の赤面、ふるえ、声のうわずり等々を他人がどう見ているかと、たえず意識を自分のあり方に集中させる。本来無意識になされうる自分の行動にも意識が集中するため、ますますぎこちなくなり、そうなればなるほど困惑の度をまして症状が悪化するように思え、いっそう自意識の度あいはひどくなる。」(8)
さらに、「他意識過剰」というべきものもある。
「患者は一般に、他人の笑い、ひそひそ話などに自分の赤面などが気づかれているのではないかと思い、たえず他人の動向に注意をはらうようになる。他人から自分にむかう意識と同じく、自分から他人へと向かう意識をもするどくさせるのだ。これを自意識過剰にならって他意識過剰とよぶことにしたい。」(9)
家族や親密な友人などごく親密な人たち(親密集団)でもなく、逆に全く見知らぬ人たち(無関係集団)でもない、中間状況で赤面恐怖は起こる。
「問題を単純化してのべると、親密集団とは、自他合体的な関係からなる集団である。そこでは家族や親友のように、たがいに気心が知れあって、遠慮や気がねをあまり必要としない。
これに対して無関係集団とは、自他分離的な関係からなる集団である。きまりきったルールにしたがって行動すれば、それ以外の気配りは無用であり、これまた気楽な面がある。
このどちらでもない対人関係、つまり中間状況において、「間」の困惑がいちばんひどくなる。それはほかでもなく、中間状況においては、自他合体的志向と自他分離的志向の相矛盾した態度が同時にはたらき、どちらの態度をとっていいのかと、この二面のあいだをふりまわされて困惑しがちとなるからだ。」(10)
「平たくいえば、中間状況では、なれなれしくふるまうのも不自然だし、かといってそっけない態度をとるのも似つかわしくなく、両方のかねあいがむずかしいということである。対人恐怖では、両者のあいだをふりまわされるうちに、自意識と他意識は同時に過剰なまでに肥大する。自他分離的志向、自他合体的志向は、それぞれ我執性、没我性といいかえることもできる。
人は誰でも、自分に誇りをもって生きている。誰もが、人より優れたい、すべてを自分の思うとおりにしたい、と思う心をもっているはずである。自分はプライドのひとかけらももてないと思っている人でも、プライドをもちたいと願っているに違いない。自己への愛は実に根ぶかいものである。そのような自尊の心、自己への執著心を我執性という。
だが人は、我執性にのみ自足できるであろうか。人は、他人を愛し、他人と心を通じあえればと願う心をもたないではいられない。人を愛するには、そのいきつくところ、自分はどうでもあれ、まずその人の幸せを願うはずだ。それを没我性という。これまた根ぶかい心性である。」(11)
自己洞察瞑想療法で治す
このように、内沼氏によれば、対人恐怖は、自意識過剰で、我執性、没我性にふりまわされて起こる。「自意識」ということも、そのように意識する自分は、幻のようなものであるのに、真の自己を知らないことによる。我執、無我も自己洞察瞑想療法で探求することである。とすれば、我執、無我を探求する自己洞察瞑想療法によって、自分をよく知ることによって、対人恐怖は違う展開をみせるはずである。我執が自分と他人を苦しめることに気がつくし、また、没我は、自己洞察瞑想療法では、自己そのものや自己の症状という主観側に注意を向け振り回されず、対象たる直接経験(仕事など)に全注意を向けている状態だと気がつくだろう。もちろん、内沼氏のいうのと自己洞察瞑想療法でいうのとは異なるだろうが、無関係ではない。自己洞察瞑想療法で、克服できるはずである。
自己洞察瞑想療法ではどうやって治していくかは、基本的には「視線恐怖」に記す。赤面恐怖の場合には、自分の心が自分の顔、声のふるえ、発汗などに向かい、それに関心が固着することから離れる。直接経験への注意集中法、自動思考への抑制法、衝動的な逃避を抑制して徹底して受容している訓練法などで、全般的に、不安への耐性を高める訓練を多くおこなう。
また、二元的な見方で、良い悪いと思う観念から離れることを訓練する。たえず心が、もの、こと、症状から離れる心の功夫を実際に行う。マインドフルネス心理療法では、認知傾向の修正ということを論理的に解決するというよりも、反応パターンの修正訓練を重視する。
自己洞察瞑想療法の実践が十分できるようになり、自信がついてきてから、やさしいことから、現実場面に出ていく。一人でできなければ、家族やカウンセラーが同行して実行する。場合によっては、「不安階層表」を作り、やさしい場面から実行していく。
赤面恐怖は、若いうち起こることが多い。それを克服しないと、表情恐怖、視線恐怖などに発展していけば、人と接する仕事、人前で発言する仕事などを恐れて、職業選択(さらに人と接する趣味など、すべての活動も)が制限されるので早く治すほうがよい。
(注)
- (1)内沼幸男「対人恐怖」講談社現代新書、29頁。
- (2)同上、35,37,81,110頁。
- (3)同上、34,37頁。
- (4)同上、61頁。
- (5)同上、61頁。
- (6)同上、63頁。
- (7)同上、59頁。
- (8)同上、59頁。
- (9)同上、59頁。
- (10)同上、63-64頁。
- (11)同上、64-65頁。