人権を抑圧する「カルト」
日本にも、多くのカルトがあるので、くれぐれも、注意していただきたい。
「カルト」は、特定の人間を神や仏のような絶対的に崇高な人物だとし、その思想、命令に従わせて、自分の欲望、野望、利益のために、他者の人権を抑圧し、金銭や労働を搾取し、隷属させる人間たちの集団である。
オウム真理教事件は、その規模、および、大量殺人という犯行の異常性によって、多くの人が知っているが、「カルト」と呼ばれる特殊の思想、宗教を提唱し、信者を抑圧して、人権を無視する団体はほかにも多い。その規模は2,3人から数万人規模のものまである。その行動によって、信者本人ばかりでなく、その子供の成長・発達を阻害し、一般社会への適応を困難にするという問題を引き起こす。信者や組織員は、組織のトップから、その人を絶対視させて、特殊の思想を植え付けられていて、脱会しようとすると「不安・恐怖」が起こり、一種の心の病気となる場合があったり、一般社会への不適応の状態にあるので、被害者を救済するには、特別のカウンセリングが必要になる。カルトが主張する思想、教えとは、仏教でいう「悪見」(「我見」「見取見」「戒禁取見」など)であり、認知療法でいう「固定観念」である。これを修正しない限り、被害者は「不安・恐怖・抑圧による特殊な思想観念」から解放されず、根本解決には至らない。欧米では、認知療法も、「固定観念」の修正をはかるので、カルトや宗教問題で苦悩する人を救済している。
(当協会も、脱会したい人の心理的な支援、不安についてのカウンセリングを行います)
とりあえず、次の点があるのは、カルトの様相が強いので、注意してほしい。被害・苦悩が大きくないうちに、離れるほうがよい。
- 組織のトップや幹部(生きている人間)を絶対視させる。
- 外部の社会を汚れたところ、おそろしいところとする特殊な思想がある。
- 現在の職業、現在の家庭から離脱することをすすめる。
- 多額の献金をさせる。ローン、借金までさせて、物品・サービスを購入させる。
- 財産のすべて、あるいは、相当な高額を拠出させて、その組織から脱退しにくい状況にしている。
- 隔離された施設に共同生活し、外部の情報を遮断する。
- 施設内での活動を参観させない。
なお、自らの悪を隠す傾向があるので、カルトは、次のように自分たちの正体を隠して勧誘する。早く気がついて、とおざかるべきである。
- 外部への宣伝では、上記のようなことはないというが、実際は行っていること。
- 外部へは、セミナー、自己啓発、ヨーガ、カウンセリング、生涯学習、種々の社会問題(ひきこもり、不登校、過食、育児不安、など)にとりくむ援助を行う企業(会社)やNPO、研究所などを装う。しかし、実質、上記の様相がある団体は、カルトである可能性が高い。
「カルト」とは何か(1)
「カルト」は、定義が種々あって、統一的な見解はない。カルトとは何かを研究者の幾つかの定義、特徴についての説明をとおしてみていこう。
竹下節子氏は、次のように説明している。
「この本の中でカルトというのは、ある特殊な人間や考え方を排他的に信奉する動きを指しているので、フランス語のセクトにあたるだろう。その特徴は、排他、独善、覇権主義、内輪主義、非公開などだ。グループ内には一定の典礼、修行、約束事があり、カリスマ的なリーダーがいて全体主義的な傾向もある。」(1)
「現代のカルトの実態は、外部の社会は悪に染まったもの、悪魔の仕業などと決めつけて外界と縁を切らせ、極端な教条主義、ラディカルでピュアなイデオロギー、内部における異論を認めぬ全体主義などで孤立したさまざまなグループだ。そのせいで、グループの内部では、しばしば社会から弾圧、迫害を受けているという犠牲者の感情が育ちやすい。実は、宗教的な看板の裏で、グループの目的の第一義は上層部における「権力」の追求であったりする。その権力は、信者を宗教的な「教え」に帰依させて得るものではなく、事実上、信者を心理操作することでのみ得られる。」(2)
カルトの表看板
「カルトはいろいろな表看板を掲げて、金集め人集め、権力の掌握などの本音をカモフラージュする。(中略)
カルトの表の姿には、孤独を癒す仲間意識を強調したものや、職業上の競争の困難を解決してくれる自己改革の約束をくれるもの、精神力の鍛錬(実はグループの利益にのみ使われる道具となる)を目指すものなどが多い。
その他に、グループによっては、難病の治癒、麻薬中毒からの解放、さまざまな「大義」を掲げて特徴にする。「大義」とは、世界平和、環境保護、人権擁護、フェミニズム、第三世界支援などだ。(中略)
カルチャー、エステ、スポーツ、教育の分野もカルトの表看板になる。(中略)
しかし、カルトのカモフラージュにもっともよく使われているのは、やはり「宗教」だろう。詐欺師、ビジネス人間、あるいは盲想や人格障害をかかえたリーダーが、宗教者を装ったり自分で宗教者だとか神だとか思い込んだりしてしまう。もともとカルトと宗教は親和性があるのだ。」(3)
カルトは、教祖を絶対に崇拝させることが多いが、その点をマーガレット・シンガー氏は、次のように説明している。
「カルト指導者は自分みずからを崇拝の対象とする。(中略)カルト指導者は、ほかでもない自分を愛、献身、忠誠の対象と化せしめる。たとえば、指導者にたいする帰依の程度をためすために、夫婦を強制的に別居させたり、親に子供を手放すことを強いたりするのだ。」(4)
カルトは、生きた人間(教祖、会長、貫主、社長、など呼称は様々でも、その組織のトップ)を、「ブッダの生まれかわり」とか「神」、「神の意志の唯一の伝え手」とか言って、自分だけが特別な者として崇拝の対象にさせる。彼(女)と彼(女)の利益のおちこぼれ、分け前を得て自分も利益(欲、満足、喜び)を得る幹部のために、信者は、金、労力、家族、こころ、人生を捧げる。宗教心によって洗脳させられているので、信者本人も喜んでいるが、自分が教祖や幹部から搾取されて心の奴隷になっていることに自覚がなく、主体性を失い、我利のために善良な信者を利用する愚劣な幹部の利益のために、貴重な人生を、つまらない人生にして送ることになる。日本にも、多くのカルトがある。
(注)
- (1)竹下節子「カルトか宗教か」文春新書、文芸春秋、16頁。
- (2)同上、23頁。
- (3)同上、34頁。
- (4)マーガレット・シンガー「カルト」飛鳥新社、29頁。