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生と死・自己のマインドフルネス的探求
体験談を書いてくださったMさんの言葉の中に、次のような一節がある。
「私のようにパニックになる人は、他人と自分の境をつけ過ぎる、他人から傷つけられることを防御するために、その人を嫌う方法をとる、ということが多いのではないでしょうか。
つまり、「自分、自分」という狭い思考やものの見方のせいで、自分自身が苦しむのではないでしょうか。 」
この「自分」とは何だろう。たいていの「自分」は、死を嫌い、恐怖する。マインドフルネス心理療法(自己洞察瞑想療法)の要は、マインドフルネスとアクセプタンス(M&A)である。私たちはいずれ、介護状態になって生きていることの意味を疑い「死」を意識したり、がん患者になったりして、終末期を迎える。死を意識した時に、M&Aは、どう活きるのだろうか。
家族も本人も、余命、何カ月と医者から言われる、または、言われなくても(家族が本人に告知しないで)感じる場合。
いくばくもないが、それを嫌う、恐怖すると、激しい不安が起きて、つらくなる。本人がつらそうにしているのを見る家族もつらくなる。つらいことに心が占領されている時の人は、ほかのことをすることができない。縁あって夫婦となり、親子となった喜びや感謝の会話をかわすこともできない。終末期のもっとも大切に思える数カ月を、つらい感情に占領されている生き方でいいのだろうか。死ぬ人は、死んだ後には、おだやかになるのだろう。だが、つらい様子で最期を接した家族は、つらさをひきづるかもしれない。
信仰のある人は、死後、神の国、仏の世界に行くということで、死ぬことについては解決すみなのだろう。だが、そのような自己と神を別にみるような信仰のない人は、それは、できない。
M&Aという視点からみれば、生きること、死ぬことにM&Aであるという生き方があるだろう。
- (A)生きることに、マインドフルネスであるということ、アクセプタンスであること。
- (B)死にゆくことに、マインドフルネスであるということ、アクセプタンスであること。
(A)は、死を意識した人生の最期の数カ月、「生」ということに真剣になることが、マインドフルネスであろう。「生」きていく上での不満、不快をアクセプタンスすることだろうか。症状(痛み、はきけ、動けない、死にゆく不安、など)のつらさを、できるだけ、緩和する処置をしてもらい、最期まで、自分のしたいことをさせてもらうことだろうか。あと、5年生きるから、旅行とか、観劇するとか、好きなことをするが、最期になったら、そういうことをしなくていいということでないだろう。おだやかに、ベッドですごしたいということが好きなことであれば、そうする。死ぬ1カ月前でも、温泉に行きたいのであれば、いけばいいのではないか。それもできなくても、何かできることがあるだろう。人は、いつの時も、好きなことをする時が、幸福だと感じるのではないか。
だが「死にゆく不安」の緩和は、相当、むつかしい。生を生きる中で、(B)死にゆくことが、本人と家族の心の中に侵入してくる。「死」に対する扱いは、大きくいえば、3種あるだろう。1)否認(嫌悪)、2)無視、3)受容。
- 1)否認(嫌悪)
死を思い、嫌う生き方だが、不安恐怖が起きるだろう。この思いにとらわれると、(A)ができなくなる。まだ、組織(家庭も組織)の一員でありながら、自分の死を嘆くあまり、組織の活動が麻痺する。他の人を巻き込む。
- 2)無視
死について一切認めず、したいことをする。長い余命があれば返済するはずが、返すあてもない負債をするかもしれない。組織の一員でありながら、自分の亡き後、円滑に運営されるようにもはからわない。他の人が困惑するかもしれない。
- 3)受容
これがアクセプタンスであるが、「死」についてアクセプタンスするとは、現実にどうするのだろうか。これを探求するのが、ターミナルケアにおけるアクセプタンスである。簡単ではない。どのように取り組むのか、言葉でいえるものではない。本人がM&Aの実践とスキルで、いっしょにやっていくしかない。マインドフルネス、アクセプタンスとは、今に真剣に生きることであろうが、過去と将来をみすえた「今」でなければならない。死期が近い時の、今は、死期が近いことをみすえた「今」となるだろう。それは、これまでの人生で、最も不快なことであろう。だが、不快なこと(死)をアクセプタンスして、その中でできることが、マインドフルネスであることだろう。自分が今最期の時においても、亡きあとも、縁あった人に感謝し、縁ある人を苦しめないように、迷惑を最小限にするために、そして、自分でも死を苦しまないで受け入れること、今やりたいと思うことで、今できることを「今」することなのではないか。そうすると、すべきことがたくさんありそうだが、たくさんはできない。真剣に考えて、選択して、一つ、一つをする。嘆いている時間が長いと、できることが少なくなっていく。
個人によっては、もう一つ探求すべきことがある。死にゆく「自己」とは何だろう。「死にゆく自己」があるとすれば、「生きている自己」とは何だろう。
西田幾多郎が気になることを言っている。死というと、ターミナルケアの時期、生物としての「死」の時に、永遠の死のようであるが、西田幾多郎は、いきながらにして「自己の永遠の死」を直観的に自覚することがあり、そして、通常自己と思っている自己の底に、自己を超えたものが、自己のうちにあることを自覚するという。
「我々の自己の底には何処までも自己を越えたものがある、しかもそれは単に自己に他なるものではない、自己の外にあるものではない。そこに我々の自己の自己矛盾がある。此に、我々は自己の在処に迷う。」
「自己の永遠の死を自覚すると云うのは、我々の自己が絶対無限なるもの、即ち絶対者に対する時であろう。絶対否定に面することによって、我々は自己の永遠の死を知るのである。」
「自己の永遠の死を知ることが、自己存在の根本的理由であるのである。」
自己の絶対否定の時に、自己の根底に自己を超えた自己を自覚する。その時に、自己の死は、違う様相を帯びるのであろう。生きているはずの生の瞬間において絶対的に否定された自己は、もはや「死」ということもないのだろう。マインドフルネスの瞑想法は、自己の死という問題についても探求できる人がいるのだろう。
Mさんの言葉に、「他人と自分の境をつけ過ぎる」とある。自分と絶対者さえが根底において「ひとつ」であると、西田幾多郎は言っているようにも見える。他人さえも根底は一つか。
自殺する人がいるが、その人は、この自己の根底の自己を自覚しないままに、別の欲求的自己、エゴの自己を自己として、それに絶望し否定して死んでいくのではないか。通常、「すべてに絶望した時に、自殺する」というかもしれない。自己にも絶望する。だが、自殺する絶望は真の絶望ではないかもしれない。死を自然死にまかせず、自分で死を実行する。なお、自分の判断力、選択力、実行力を放棄していない。自殺は真の絶望ではないのではないのか。死ぬという判断選択実行さえも捨てることが、絶望であるかもしれない。そのような時には、自己否定もない。世界否定もない。否定しなければ、不快を超える。すると復活するかもしれない。自己を超えたものが自己のうちに働いていることを自覚する時に、ひるがえって、「生きよ」という奥底からのハタラキを自覚して、絶望から克服できるのかもしれない。
徹底して、エゴを死ぬ。エゴを死に切る。死にたいという自我の思いも放棄して、不快なことに満ちた現実に、マインドフルネスであってみることは、アクセプタンスであることであろう。自己を生かそうとするものが働いている。
「死にたい」と思う人への、マインドフルネス心理療法の助言は、「死にたいという思いがわいても、信用せずに、放棄しておいてください。抑うつ気分があっても、そのまま受け入れて、他のつらい症状もそのままマインドフルネス(観察、受容)でいて、なすべきこと(この場合、趣味、読書や症状が軽減される課題の実行など)をしてください。自殺は決してしないでください。自己や他者、環境、過去未来を否定することを徹底的に放棄してください。生きる課題を実行してください。」
マインドフルネスの実践に参加なさる方も、幾人か「死」をむかえていかれた。おいでにならなくなって、ご自分一人で探求していかれた。これからも、この問題を、すべての人がとりくんでいく。