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ターミナル・ケア、死生観の確立、がんの告知

 =最期を精神的に満足して死ねるか、誰もがむかえる苦悩の現場。

 ガンなどの最終段階に至り、現代医学では、もう治る見込みがない段階に至っても、医師側の主導によって、患者に苦痛を与える治療を続けるべきか、それとも患者の希望によって、苦痛を柔らげる医療と精神的サポートを重視する緩和ケアを行うべきか。ガンなどにかかって、ほとんどすべての人が、病院で最期をむかえる今日、望ましいターミナルケアを議論すべきである。ここにも「こころ」「生きること」の問題がある。

死に近き人、ターミナル・ケア

 今、ガンで死亡する人が多い。死が近い末期ガンの患者に対する医療について二つの対立した立場があるという。
 ターミナルケアとは、治る見込みがないと判断された患者への医療行為であるが、特に上記の(B)の医療に言われる。

「死に近い時期(死の予測の三−六カ月前)から死の時までにある病者への専門的な対応である。」(1)(J198)

 患者や家族の希望によって、自由に選択できるべきであるが、問題がある。  死を目前に控えた患者には、死の恐怖、病苦からくる抑鬱、介護者との心理葛藤など様々な精神的問題があるが、ホスピス以外の一般の医者は精神面のサポートする知識や技術がない(3)のが現状である。だから、末期患者の多くがホスピスに移るのを希望しても、それに応じきれなくて、大勢が十分な精神的サポートを得られず厳しい、寂しい終末をむかえて旅立っている。
 そういう状況では、私たちは、どうすればいいのだろうか。

 現実にホスピスで行われている精神的サポートの中に、「生きがいの発見」(4)(K109)、「死生観の確立」「死への受容」への援助(5)(K109、220)がある。ここには、宗教が有効である(6)という(K150)。
 勝沼東京医科大学教授は、禅と生死観について次のように言及している。
「死への準備教育はまだ日本では体系化されていないが、昔の日本人は僧侶、武士達が禅や信仰(宗教)などにより生死を超越した無我の境地に到達することによって死をも恐れない、いわゆる「安心立命」の心境を禅や信仰で修業した。したがって、このような修業は特定の一部の者に限られていたが、デーケンンのいう「死への準備教育」とは動物や友人、親族の死から死を体験するが、死の体験が単に暗いネガティブなイメージとしてちらえるのではなくて、死を意識することによって、逆に自分の限られた命を新しい目でみつめ直し、有意義な人生を送ろうと決意させる新しい人生観の転換を心構えさせる教育(生への準備教育)であるが、このような考え方はまだ一般化されていないのが現状であろう。」(7)(K150)
 河野友信東洋英和女学院大学教授によれば、末期患者に応対する医者や看護婦でさえ、このような生死観、人生観を確立しておらず、患者から求められても助言できない。また、逆に特定の宗教を持った医者は、それを患者に押し付けてもいけない。そういう医療者の教育は、今後の課題である。(8)(J206)
「ターミナルケアにおいては、なかんずく、精神性に焦点をおいたケアが重要である。病者によっては霊的、宗教的な支えが最も大切である。終末期における心理療法では、死の不安・恐怖を避けてはすまない。実存的な精神療法だけでも万全ではない。死を超える死生観によるアプローチが必要な場合も少なくない。それは人によっては宗教であり、人によっては自然的死生観であり、また先端の宇宙科学的にもとずく循環的死生観を抱く人もいるであろう。」(9)(河野教授、J206)
「死を前にした人間の根源的なストレスに対処するには真心と愛が必要である。ターミナルケアの中核であるナーシングは祈りにつうじる厳粛な行為である。」(10)(河野教授、J206)
 しかし、ターミナルケアを理解しない医者も多い。
「絶対にこころすべきは、医療の専門職が死にゆく人のストレス源にならないようにすることである。気づかずにストレス源になったり、患者の人間性を傷つけることがあるが、絶対に避けるべきである。」(11)(河野教授、J207)
 ターミナルケアを理解しない医者が主治医となる病院では、宗教者が訪問することを喜ばない医者も多い。医者が有利な立場にあるから、患者や家族が宗教者を必要としても、理解ない医者のもとでは、希望がかなえられない。ただ、患者の友人の立場で、ひかえめに訪問するしかない。
 まだターミナルケアが理解がされているのは、ごく少数の病院ではあるが、参考書に寄稿している方々は、ターミナルケアに深い関心を持ち、その推進に精力的な活動をしておられる。これらの取り組みを称賛すると共に、さらに今後の健闘を期待したい。

精神的問題はかねてから準備

 どの問題でも、与えられるのをただ待つだけでは、「私」、「私の家族」の番には間に会わない。ターミナルケアの取り組みが医療関係者側から不十分であるならば、私たち患者側でできることを少しづつ実践し、それをテコに、広く展開していくことを考えるべきではないのか。

自分たちにできる事

 自分の親族が死んでいった時に、病院での対応に大きな不満を持った遺族が多い。医者が有利な立場にあるから個人では言いたいこともいえず、親族を悲しい死に方で送った親族が、その現状を見て、これを変えたいと思っている人は多い。ホスピスの増設の運動を続けることは大切であるが、それは財政的な問題から簡単には実現しない。そこで、次のようなことを実現していくことが自分たちにできる身近かな運動であろう。

(1)死生観の確立

 個人の死生観の確立は自分で行う。医療関係者が精神的ささえの問題に未熟であるならば、一人一人が、それを準備することである。長沼教授が禅などで生死を超越した死生観を得ることができたのは、ごく一部の人だと言ったが、 禅の推進者の課題だろう。本当のところは、誰でもできるものである。患者(将来、あなたも、そうなる)の一人一人が、日頃から、死生観を確立することを考え実践すべきある。
 「生死観」というように、死への観点とは、生きることの意味の確立であって、死を控えた人だけの問題ではないのである。いかに死ぬかとは、いかに生きるかという問題であり、人生の早いうちに確立すれば、その生き方全体にかかわるものである。

禅の生死観

 禅は、自己とは何か、人間とは何かを探求するというので、「死生観」に直接取り組む実践であろうか(私は禅僧ではないのでわからない)。
 禅を行じて、哲学者となった西田幾多郎はこういう。
「我々の世界は時間空間の矛盾的自己同一として、絶対現在の自己限定的に、作られたものから作るものへと、限りなき因果の世界である。」

「絶対現在の瞬間的限定として絶対現在そのものに対するのである。ここに我々の自己は、周辺なくして、至る所が中心である無限球の無数の中心とも考えることができる。」(12)(岩波書店『自覚について』360)
 人間は常に現在(絶対現在)に生きている。我(が)を探求し、独断的・自己中心的な評価的判断を保留して生活することにより、絶対現在の自己をみつめてみると、自己は単なる相対者ではなく、絶対者と一つである。その自己において世界が創造されており、自己は宇宙の生命体という感覚が会得され、それによって、死の問題から解放されるという。自己が宇宙の生命そのものであるという感覚を会得した者は、他の人間も自分と一つの生命体を生きていることを実感する。すべてが自分そのものであるから、小さな打算から他者を傷つけるエゴイストを憎むのであろう。苦悩する人は自分そのものの一部だから、他者の痛みが自分の痛みとなって、その痛みを起こすエゴイストの打算、我利を許さないのである。西田哲学には、そういう自己観、そこからの生死観の探求があるようである。

 死とは、生とは、自分とは何か、という課題に取り組むことは、どの年代であろうと早いということはない。ターミナルケアにおいても、生死観の確立の機会である。自己洞察瞑想療法は西田哲学を参照しているので、ターミナルケアの現場でも、貢献できるに違いない。

(2)告知問題への覚悟

 同じく死生観の問題に帰着するが、重篤な病気であることを「告知」するかしないかの問題への覚悟を自分で準備することである。ホスピスの問題は、病気の「告知」と、患者に事実を告知し同意の上での治療を行うという「インフォームド・コンセント」の問題ともからむ。本人に告知せずに家族の独断で治療方針を決めていく場合に、よく患者と家族・医者との葛藤、死後の後悔などが聞かれる。これも患者と家族が「死生観」を確立していないためである。告知ができれば、緩和ケアへの転院を患者が希望するかどうか聞くことができる。真実が告知されていなければ、真のホスピスは成り立たない。私の家族や親戚の場合でも、いつも本人への「告知」が重苦しい問題となった。生死観が確立している人に対しては、躊躇なく告知でき、患者の希望する治療を受けさせ、ホスピスを希望するかも患者が判断できる。死生観の確立のないうちに重病になっては患者も家族も苦しむので、病気になる前から、すべての人が「死生観」を確立しておくということが望ましい。

 ホスピスの数が全国で40カ所と、少なくても、個人的にターミナルケアに理解のある開業医は多いはずであるから、そういう医者の協力を得ながら、ホスピス以外でも、幅広い一般の援助を受けつつ、望ましいターミナルケアの実践を少しづつ実現し、それを模範として、他の医療関係者をも動かす大きな力になっていくことを期待したい。
 自己洞察瞑想療法は、がん告知、告知後の長い闘病期間の心理的克服、ターミナルケアにおける精神的サポート、死生観の確立にも貢献できるであろう。