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がんになっても
「がん」になった場合、患者のかかわりかたが、いくつか投書と報道がありました。
苦中に楽ありの現場です。
「がんと闘って稲作続けたい」(投書)
- 「私はがんの宣告を受けた。−−82歳だが、稲作に対する情熱は決して人後に落ちない気持ちである。
私は、春から育苗、田植えをした。これからは追肥もしたい、病害虫の駆除もやりたい。だが、6月には入院、20日間は必要と医者は言う。」
- 「物があふれ、食べ物を大事にするかつての日本人の美風はない。白米を惜しげもなく捨てる現代人。残飯が大都市では大量に発生しているという。
それでも、私は「米」に情熱を抱く。やがて回復したらまた、水田に立つ。そして生育を見守る。」
- 朝日新聞、5/20/2002
「ホスピスから通勤」(投書)
- 上山きみ子さん。彼女は、43才。がんの痛みをコントロールしようと入院した。夫は病院に寝泊りして、病院から仕事に出ていく。
- 「朝起きてコーヒーをたてると、病室が香りで満ちる。夫が身支度を終えれば、病院の入り口までお見送り。「行ってきます」。風に舞い散る桜吹雪を背に、元気な声で手を振ってくれると心が和む。いつもの朝の風景だ。」
- 「夜はカエルコールの後の2時間ほどが待ち遠しい。病室にコンコンとノックが響くと、「ただいまあ」と帰ってくる。また心の緊張がほぐれていく。彼がいま、「我が家」と呼ぶ場所、ここはホスピスである。」「君のいるところ、そこが帰る場所だ」
- 朝日新聞、5/20/2002
- (大田)がんになると患者だけが病院に入り、配偶者と別居となるケースが多いでしょう。しかし、こんな「がん」がひどい時こそ、配偶者がそばにいてあげたら、力強いでしょう。このホスピスは、いいシステムですね。いよいよ痛みがひどくなったら、こういう施設に入りたいが、ベッド数は不足して希望通りにはならないようです。
「生きる喜び 教えてくれた」
- あごのがんで手術した田口さん(当時54)は、詩を書く。その記事を読んだ中学生と文通が始まった。
- 田口さんの詩--
水一杯飲める幸せ
物を少しでもかじることの出来る幸せ
震えながらでもお風呂に入れる幸せ
めまいと脱力感でも散歩できる幸せ
田口さんの詩を見た生徒は、生きることのすばらしさを感じた。昨年6月、クラス全員で田口さんに励ましの手紙を書いた。
田口さんから、お礼の手紙が送られた。
12月、田口さんは逝った。
朝日新聞、5/12/2002
「痛みやわらげ迎える最期」
- 千葉県柏の国立がんセンター東病院の緩和ケア病棟(ホスピス)。
- 入院するには、本人が書類に書いてある方針を承諾する。だから、当然告知されている。
- 当然、がんであることを本人が知っている。しかも、積極的な治療はしない。つまり、治療に手をつくした後に、痛みなどがひどくて和らげるケアなどをしてもらうために入院する。
- がんの痛み、はきけ、呼吸困難などの苦痛を医学的にケアしてもらえる。
- 面会時間の制限はない。希望すれば付き添うことができる。
- 登録している患者が多く、希望どおりに入院できないことがある。「待っている患者さんの4割ほどは、入院できないまま、登録して1カ月以内になくなってしまう」
- 朝日新聞、6/15/2002
- (大田)上山きみ子さんは、このようなホスピスに入院しておられるのですね。もう医者から治癒の見込みがない、といわれ、痛みがひどくなったら、その苦痛を充分にケアしてくれる専門の病院です。最期が迫っている。希望すれば家族が付き添える。痛みを充分ケアしてもらえて、最期を家族と共に、肉体の苦痛はなく、おだやかにすごせる。希望者が多いのだから、こういうところに税金を使って希望者がみな入院できるようになればいいですね。癌になったら、自分の生と死をみつめることになります。肉体の苦痛は和らいでも、生と死のぎりぎりの問題があります。自分の人生観の実践の現場です。自宅の病床でも、ホスピスでも心の探求を継続できればいいですね。ターミナルケアの場合、宗教的な問答も出てきます。私は仏教者ではないが、仏教の社会的貢献の場であると思います。(ホスピスには、キリスト教は積極的なようですが、仏教は消極的です。ターミナルケアに貢献できるという学問の裏づけが十分にできていない。
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