うつ=妻の重荷(1)
=患者を生きる(朝日新聞)
朝日新聞で「患者を生きる」という連載記事が掲載されている。今「うつ」についての、連載が続いている。8月1日から5日は、「妻の重荷」。要約して、ポイントをおしらせします。
- 99年6月、大阪府の主婦、三村藍さん(46)は、うつ病と診断された。
「眠れず、食べられない。理由のわからない不安感など」
思いあたるのは、1年前、小学校のPTAの役員になったこと。当時中1と小3の男の子があった。
6年間の間に、役員を務めるというのが、小学校のきまり。
三村さんは、広報を受けもった。学校行事の取材をすることが多かった。
- 「母親たちは、会合では仲良く笑いあっている。なのに個別に顔を合わせると、いない人の悪口を言い合った。「そんなこと言うものじゃないのに」と、思っても言えなかった。「私がいないところでは私の悪口を言っているんだろう」と思うと怖くもなった。」(A)
- 役員になって1,2カ月たつと、胃の調子が悪くなり、寝付けなくなった。
受診した婦人科では「更年期障害」と言われた。内科で胃腸を調べても原因はわからなかった。
- 1年後、PTAの任期が終わった。とたんに症状がひどくなった。テレビで「心療内科」という言葉を知り、精神科診療所をたずねて、「うつ病」と診断された。抗うつ剤、安定剤、睡眠薬による治療が始まった。
摂食障害がひどくなり、10月に3週間入院。夫と子どもを残したことがきがかりで、退院したが、「死んでしまいたい」という思いが頭をぐるぐる回る。
- 「ひとりになりたくない」
実家に帰った。両親は、うつ病に理解がなかった。
「情けない」と怒り、「母親なんだから頑張りなさい」と励ます。
1か月後、戻った。
- 「その後、病状は大きくは変わらず、処方された様々な薬はなかなか合わなかった。
- 02年、下の子が中学生になった。卒業式にも入学式にも行けなかった。
- 「うつ病」の診断から3年余りたった02年9月。団地4階の自宅ベランダから身をのりだした。その時、高校の長男が帰ってきた。「我にかえり、死がそこにあったことに恐怖を感じた。「死ぬってこんなに怖いことなんだ」。「死んではいけない」と思った。
- 「この経験で、気持ちに変化が出てきた。定期的に診察に通い、薬も飲んでいたが、「もっとしっかり、先生と向き合おう」と思えた。」(朝日新聞 8/1-3の途中まで)(続)
薬物療法でなかなか治らない実情が紹介されている。ここまでは、4つ、指摘しておこう。
- (1)発病の原因は、役員になった忙しさのように見えるが、そうではないだろう。
(A)に表現されている心理的ストレスによるだろう。うつ病は、心理的な「不快の思考」によって起きることが多い。おそらく、PTAのことが「嫌だ、嫌だ」と繰り返し、考えたら、うつ病になる可能性がある。こういうことが知られていないので、うつ病になる人が多い。
- (2)婦人科、内科が、詳しければ、うつ病だとわかったはずだが、診断が遅れた。専門でないから、うつ病が、見落とされる。その間に、自殺するかもしれない。
- (3)心理的要因でなった、うつ病は、薬物療法では治りにくい。PTA役員をやめてから久しいのに、治らない。3年も後に、ようやく改善するが、これは薬の効果とは思えない。次の記事でみる。
- (4)実家の両親が、うつ病に理解がないこと。こういうことが多いだろう。このケースは自殺しなかったが、自殺されたらどうするのだ。うつ病について、すべての国民が理解しておくべきだ。
(続)