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現代の日本仏教は深い哲学を発掘できていない
菅村玄二氏が、マインドフルネス心理療法が外国産の輸入に頼る傾向が続いており、東洋哲学の本家の日本である
から、日本から独自のマインドフルネス心理療法を世界に向かって提案できないのかという
問題提起をみました。
外国の人が日本の仏教にある哲学を賛嘆して医療に取り入れ始めたのに、日本の心理学者ができ
なかったのは、実は理由があるのです。
日本の仏教の各宗派の開祖には、深い東洋哲学があったのに、現代の仏教解説書ではその深い哲学が強調されない・・・。現代の仏教僧や仏教学者が書いたものを読んでも、深い哲学を説明してくれていないから、一般の国民や心理療法者
は、日本の仏教に深い哲学があることを知ることができません。
日本の天台、真言、曹洞など各宗派の開祖の思想には、深い東洋哲学があったことを竹村牧男氏
(東洋大学学長)が指摘しています。
(「入門 哲学としての仏教」講談社学術新書など、多数の著書で)
開祖には、深い哲学があるのに、ところが、現代の専門家(僧侶、学者)の説法や学術書では、
それに触れていない・・・。
だから、現代の専門家でない、国民や心理学者が、日本の仏教に欧米の人が賞賛するような深い
哲学があるとは教えられない・・・。こういう現象が起きているので、日本の心理学者が、
マインドフルネス心理療法を創造できなかったのは無理のない状況だと思います。
欧米の人は、別のソースから、日本仏教の根底にある深い哲学を学んだのだと思います。どこから
? 仏教経典の原文翻訳、道元の正法眼蔵の原文翻訳、鈴木大拙や西田幾多郎の著書などからと思われます。現代の僧侶や日本の学者の本を通してではなくて、原典を読んだ・・・。そこに、深い哲学を見た・・・。
竹村氏はこうした埋もれた哲学をもう一度、現代に生かすべきだと言っておられます。
「残念ながら、今日、このような見方は、社会から失われているのが実情である。しかし、その
思想が深い真実をふくんでいて、今日に重要な意味を有しているなら、鋭意、吟味検討し、今日
の時代にふさわしく鍛え直し、ふたたび世に訴えていくべきではなかろうか。
その意味で、仏教の世界観をあらためて掘り起こし、さらに展開していくことは、今日の一つの
大きな課題だと思うのである。」
(「入門 哲学としての仏教」講談社学術新書、145頁)
日本仏教の深い哲学の掘り起こしと、現代的に「さらに展開していくこと」の「大きな課題」を
日本の仏教僧、仏教学者、心理学者でなく、欧米の心理療法者が行いつつある現状は、はなはだ残
念なことと思われるのです、菅村氏の嘆きも。
日本の心理学者は、原文は、難しいので、仏教の解説書を読むでしょう。でも、そこに深い哲学があることを書いていない(書く人が見落とすとか、ほかのことを強調したいから)から、心理療法に応用できると思いつくはずもなかったのでしょう。欧米の心理療法者は、経典や語録の原典を読むから深い哲学を読み取ったのでしょう。原典の解釈は、読む人の思想や関心事、利益、立場によって、随分違ってしまいます。仏教研究の
竹村氏は見落としている開祖の深いものを発掘すべきといわれているのでしょう。
そういう深い東洋哲学を日本の心理学者も発掘して、日本独自のマインドフルネス心理療法を欧米に提案できないかということを心理学の菅村氏が言っておられるのでしょう。
「このような動向は、仏教国の心理学者としても非常に興味深く、今後の展開が期待されるもの
であるが、一方で、春木が述懐するように、「本家である日本において、話題にされてからそれ
に追従するようなことであっては、はなはだ滑稽なことである」という手厳しい見方もある。
とはいえ、現在のところ、仏教のもつ心理学に対する潜在的な可能性について、西洋の多くの心
理学者が関心を寄せながらも、マインドフルネス瞑想法をはじめとした技法論的な展開にのみ終
始している感がある。単なる技法論を超えた生きる知恵と心理学の伝統とを本質的に結びつ
けることはできないのではないか、とも危惧される。
日本から発信していく心理学のひとつの形として期待されるのは、西洋から輸入された研究の
追試ばかりするようなドープな研究ではなく、己の文化の特殊性から普遍性を引き出すよう
なディープな展開である。」
(「マインドフルネス認知療法」277頁)
◆セラピスト・カウンセラーを育成する人には哲学が必要になる
◆カウンセラー(セラピスト、医者)も自己洞察スキルの体験が必要
◆専門家の我執