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インド、中国の仏教、襌は出離的

 今、考察しているのは、過去の仏教はインド、中国、日本のもの すべてが、出離的であり、教団内部の僧侶、研究者にしか理解されにくく、 一般の国民で悩む人には、 実践されにくいものとなっているという研究者の指摘である。それで、僧 侶でない、さまざまな苦悩、ストレスをかかえた一般国民のそのような苦 悩に真に解決となるような ふうに教えてくれないものになっているということである。
 宗教としての「仏教」ならば、ごく一部の専門家のもの (それなら、世界的宗教になるはずがない) ではなく、一般庶民の苦の解決のためのもののはずであった。
 「稀代の仏教学者」と言われる中村元氏(1912-1999)の言葉がある。悩む一般国民を救済できない現代 の仏教は仏教ではないかもしれない。つまり、初期仏教のように、現実の苦を解消できるような支援はないようだということである。だから、苦脳する人は新興宗教や心理カウンセラーのもとへいくしかない。

日本の現代仏教は慈悲を言わない?

 中村氏は、こういわれるのだが、書店に並んでいる多数の「仏教書」は、仏教ではないかもしれない。
 「公案襌」は難しい。「わけのわからぬようなしかたで述べる」ように見えて、一般国民は寄りつけない。 死後の極楽浄土しか説かないならば、親子、夫婦の不和、うつ病、不安障害、がん患者の死の不安など現世での苦脳は救済されない。坐禅の形が悟りならば、家庭や職場の悩みは解決しない。初期仏教経典が「苦の四諦」を強調し、中村氏が指摘されたように、苦の解決ができないのならば「仏教」とはいえないかもしれない。だから、新興宗教やマインドフルネスが期待されているのかもしれない。
 日本には、苦しむ人が多い。うつ病、不安障害、依存症、暴力、虐待、パワハラ、セクハラ、自殺。現実の苦は仏教では救われないのか。釈尊はこういう苦を解決できるといわれたのではないのか。宗教、仏教の核心とは、庶民の苦の解決ではないのか。
 どうして、日本の伝統仏教はこのようになってしまったのだろうか。いつの時代(江戸時代、明治昭和か)にか、いつのまにか変質したのか。それとも、主流でないところで日本的霊性が生き続けていたのか。

マインドフルネスに参照できるのは?

 欧米のマインドフルネス研究者が、「東洋哲学を応用したもの」とか「道元禅師を尊敬している」と言われるのだから、日本で日本人に向くマインドフルネスを考えないといけない。
 こういう考察をしているのは、繰り返すが、日本人による、日本人(ほんとうは世界中の人)のための日本人(本当は世界中の)の苦しみと自己成長のための、マインドフルネス・アクセプタンスの構築のために、過去の仏教や哲学のどこを参照したらよいのかをさぐるためである。現実に苦脳する人のいないヒマラヤ山頂にいて、世界を見おろしたければここまできなさいと、いっても無理である。そこを望み到達できるのは千人くらいである。だが、少し歩けば楽になれるところに導いてくれる教えが過去にあるならば、ありがたい。それを望む人は、日本に何千万人もいる。 うつ病の人やがんになっている人でも行けるかもしれない。そのような弱い人でも、本当に救われる仏教はなかったのか。日本の仏教は、みな苦しまない人がするものだったのか。
 (続く)
インド、中国の仏教は出離的
 =日本の仏教も外部の人々の現実苦の解決支援の手法に熟練していない