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インド、中国の仏教、襌は出離的

 =やさしく他者に説かないと死んだ仏教

 インド、中国、日本の(近現代の)仏教は、弱い人への慈悲的救済活動 が弱い。(もちろん、少数、やさしく説いた人が、禅宗にも真宗にもいた 。後に触れるかもしれない。)概して、庶民へのやさしい教育が弱い。 日本人の、心の病気になっている、ある意味で苦しく弱い人に向いたマイ ンドフルネス心理療法を開発するために、インド、中国、日本の仏教は参 考になるのだろうか。
 前の記事で、中村元氏(1912-1999)の言葉を見たが、襌の公案による指導 法が「仏教」的ではないという批判であった。その厳しさも、後に紹介す るだろう。 とても寄り付けないし、拒絶している。
 今度は、念仏の浄土真宗への批判を見る。自分だけの救いに満足するの を批判している。他者の救いのためには、やさしく説かねばならない。  このように、「稀代の仏教学者」中村元氏は、やさしく説かねば仏教と は言えない、慈悲がない、慈悲なければ仏教ではないという。 仏教の核心は、衆生の苦の解決であった。
 道元、親鸞は庶民の苦を見ていたが、昭和の頃、すでに仏教は庶民の現 実の、現世の苦を救わず、変質していたという。西田幾多郎や鈴木大拙が そう批判した。時々、庶民にやさしく説いた盤珪、鈴木正三などがいたが 、例外であったという。
 浄土真宗には、庶民で深い安心を得た妙好人がいたので庶民でも救われたが、利他に弱い と鈴木大拙はいう。
 日本人の魂のやすらぎ、鎌倉時代から明確になった日本的霊性は、厳し く責める、裁く父のような教えを求めず、やさしくさとし、できが悪くて も愛で包む母のような寛大さを求めたのである。日本人は、高い境地までいかないと認めないと条件をつけて、 厳しく裁く父のようなものを求めず、 最初から悟りの中にいる、救われている(道元)、絶対者と一つであるとやさしく包む母のようなものを求めた。 日本人で、マインドフルネスを開発するときにも、考慮したほうがよさそうである。
 

 (続く)
インド、中国の仏教は出離的
 =日本の仏教も外部の人々の現実苦の解決支援の手法に熟練していない
タグ:マインドフルネス
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