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世界的にはマインドフルネスが普及し始めているが日本ではまだ

 第二世代の認知療法の限界が言われるようになりました。世界的にも、これでは改善しな い問題が多くなっているようです(マインドフルネスの文献による)。認知療法では改善しない問題もあることから、第三世代の認知 行動療法として、仏教の瞑想を活用したマインドフルネス心理療法が世界中で 研究開発されていて、ぞくぞくと翻訳書が出版されています。
 日本には、類似した「坐禅」があったのですが、日本では活用されませんでした。 下記の記事でみたように、日本の襌は普通の国民の「苦悩の解決」に貢献できると教化さ れてきませんでした。また、現代人のさまざまな苦悩、問題の解決に貢献できる のかどうかわかっていません。江戸時代にほぼ決定した方法(説明のない坐禅や公案を用いる)や目標(坐禅そのもの、悟り)によって 、現代も行われています。
 一般の人は時に、ストレス緩和など何かを期待して、坐禅に行きますが、期待のものが得られるかどうかわかっていません。関係があるのか理論的な説明がされません。何の目的をもたないで坐禅するとか、悟りを得るために坐 禅するとか言われます。大変わかりにくく、そういう坐禅に満足する一般庶民は多くはありません。新興宗教の会員ほど多くの人が坐禅をしているわけではありません。
 仏教の研究者から、日本の仏教は、一般の国民の苦悩の解決の援助(慈悲)に弱い ことが指摘されています。一般の国民には、わかりにくい「悟り」ということを目ざすといいます。だから、こ のような方針に満足できる一般国民は極めて少ないのです。
 深刻に悩む人の訪問するところは、寺院ではなくて、医師と心理カウンセラーです。死後どうなるのかとか、 自分とは何者なのだろうということに悩む人がよりどころとするのは、新興宗教や、死後も魂 は存続するということを書いた本などです。一体、伝統仏教は、どういう人(政治家? 健康な人? 悩みを持たない人?)を対 象として、どういう内容を伝えようとしているのか、現代人の生活とのかかわりが明確では ありません。元来、インド仏教には、苦悩の解決や解脱という根底に深いものがあったようです。根底は変わらない真理があったようで、その根底は共通であっても、表面的な説明のしかたには、時代の要 求にあったかたちで、変化してきました。初期仏教、部派仏教、般若、法華、唯識、浄土、華厳、天台、真言、中国襌、日本の道元の教え、そして江戸時代の白隠と発展してきたようで す。しかし、鎌倉時代、江戸時代に決められた教え方が、そのまま現代にも適用 されているようです。宗教の自由が制限されていた封建時代のものです。
 現代では宗教は自由となり、身分も平等になり、環境も、受け手の国民も、苦悩の内容も大きな変動をしているのに、説き方が 昔のものを守っています。
 現実の苦悩が多く、そういう方法に満足できない国民は、新宗教を創設しました。そして、つい最近、外国では、マインドフルネスというスタイルを開始したのです。 宗教色のない(神仏の信仰を言わない)、しかし、現実の苦悩(うつ病、家族間の不和暴力、犯罪者の再犯、薬物依存等々)の解決を目標としています。説明して実践してもらう方法をとっています。担い手も、世界では、 聖職者(僧侶)ではなく、心理士、医師が中心ですが、どんどん翻訳輸入されていますので、日本もそうなるでしょうし、 看護師も有力な担い手になるかもしれません。さらに、感情が関係する問題にかかわるさまざまな領域の支援者です。
 このまま、伝統仏教が従来の方法を踏襲し続けて、現代の大多数の国民が仏教はこういうことには貢献してくれないのでしょうかという期待に応えないでいると、2,30年後、日本の仏教を取り巻く環境は大きく変わっているでしょう。大変盛んだった唐宋時代の中国の襌は、一般庶民に理解されるものではなく、宗教の自由もなく、完全に消滅しました。
 日本の襌は、現代人の現実の問題との関連がわかりにくく、苦悩の多い一般国民は参加できないので、日本人は、世界の人々が開発したマインドフルネスを翻訳して、移行していくでしょう。翻訳書が次々と出版されて関心の強いことがわかります。改善のデータ、エビデンスもあって、さまざまな領域の支援者や、医療関係者が真剣ですから、現代人に受け入れられていくでしょう。教育、その他の関係者も関心を持っています。 さまざまな領域の支援者が、心理的なことに関係して苦悩する人たちを本当に支援できるツールを求めているからです。
 仏教も、マインドフルネス心理療法者たちが行っているのを検討してみて「そういうことは 開祖の教えにもある」と現代的な価値基準でみなおしてもらえないものでしょうか。そうなると、マインドフルネス心理療法に似た解決法を提供する場所が、一気に多数できます。