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インド大乗仏教は外部の社会への行動を強調した、
その後の展開は外部とのかかわりがない
=時代が大乗仏教の環境と違うので、現代の環境にあうマインドフルネスが必要
マインドフルネスの哲学と実践は、元来、東洋のものである。
仏教にそれが現れていたが、しかし、仏教は、社会への貢献の精神を失ってしまった時代があった。人権を抑圧していた封建社会にあっては、仏教は社会への貢献ができない形になっていた時代がある。身分制度があり、年貢を搾取されていた民衆に、苦悩の解決を説くことが制限されていた
近世がそうであったが、現代はそのような時代のものをひきついでいる。だから、西田幾多郎が批判した。
西田によれば、絶対者は自己の奥に内在的であり、それ自体単独では存在せず、必ず相対として現れる。各人の内奥に各時代の現実社会、環境となって現れる。
一般国民に仏教の自由がなかった時、国民のための仏教はなかった。閉鎖的な僧院の中で僧侶のものだった。社会の外の人に説く必要はなかった。
また、たとえば、太平洋戦争のころと現代とでも環境が違う。仏教は、最も奥の絶対無が自覚されたのであれば、その時代の環境、社会に特有の形となって現れるはずであったが、仏教も世界の中でいきるものだから、時代の環境に制約された。
哲学者、小坂国継氏は次のように西田幾多郎による仏教批判を紹介し
ている。
「従来、仏教的な考え方は、ともすれば、ただ内即外・外即内なる心的
境地や境涯にとどまってしまうきらいがあった。自己と他との一体不二の
境地に満足し、それに安住してしまう傾向があった。そこから、さらに一
歩、物の世界に歩み出て物の世界に働きかけるという側面が希薄であ
った。そこに、西田は従来の東洋的な「心の論理」の欠陥を見る。そして
、この点では、従来の西洋的「有の論理」の方が、はるかに「物の真実
に行く」傾向があったという。こうした点で、東洋的な世界観は多分に「
静寂主義」や「諦観主義」の要素を含んでいる。そこでは、物の世界の
改革や変革よりも、透徹した自己の境位や境涯の方に力点がおかれて
いる。つまり歴史的実践という側面が希薄であったというのである。」
(小坂国継 2011「西田哲学の基層」岩波書店、p117)
ここでいう「仏教」とは主に襌仏教や念仏の教えをさしているであろう。
従来の仏教は、自分一個の向上に専念して、社会の創造、改革、変革に働くことが希
薄であるというのである。現代にも、多くの社会問題があり、大震災もあ
った。仏教者が、その仏教そのものの教えによって現実の社会の問題の解決、救済に
のりだすことがないという意味であろう。閉ざされた集団の中において、
境涯、心境を向上させることに熱心で、外の社会の動きに影響を与える
ことが弱い、こういうのである。西田幾多郎は、人は創造的世界の創造
的要素というが、確かに、その世界が自己の集団内に限定されている
のでは、現実社会での歴史的実践という側面が希薄であるという、これ
が西田の仏教批判であった。
したがって、マインドフルネスとして現代の
社会の改革や社会問題の解決のために活用しようというのであれば、あ
まり、古い教え方に執着した仏教は参考にならないのだろう。すなわち、世界は進展しているのに、封
建社会に成立して、一般国民への自由な布教が制限されていたころの
仏教の教え方はそのままでは現代の社会問題解決に参考にならない。
外部での行動を強調して
いたのはむしろ、襌仏教が起きるはるか以前のインド大乗仏教であった
。外的世界での慈悲の実践を強調したのは、インド大乗であった。
しかし、現代の世界、社会は、インド大乗の時代とは激変している。
このような社会に生きる我々は新しいマインドフルネスを創造しなければ
ならない。欧米の心理療法者はそれを開始した。
日本のマインドフルネスも、それぞれの社会、世界の問題をよく知るさまざまな領域の人が開発する必
要がある。経済を知らない人は経済の領域で生きる人々の問題を知らない、その解決法を提言できない。
医療を知らない人は医療領域で生きる人々の問題を知らない、その解決法を提言できない。
教育を知らない人は教育領域で生きる人々の問題を知らない、その解決法を提言できない。
問題は常に特殊な形であり、一般的ではない。
大部分の人は宗教教団の中にだけ生きているのではない。家庭や職場で生きている。そ
の生きる現場で起きる問題をその現場で解決できるものでなければならない。世界の運動となっているマインドフルネスは、これなのである。
日本は、はるかに遅れている。西田哲学の仏教批判やそれぞれの領域の専門家のエゴイズム批判を
よく知るべきである。国民、世界の立場に立たず、自分のグループの利益を優先する専門家。
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