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初期仏教はダルマ(法)を実体化し、社会的問題の
応用をしないと大乗仏教から批判された
現在の仏教でも、日本、東南アジアにさまざまな宗派があります。東洋哲学といえるので
しょう。しかし、同じではないのです。日本でも、さまざまな仏教宗派があり、実践的哲学が違っています。その哲学にあった実践(マインドフルネスの要素があります)がされています。
思想哲学のみあって実践がない宗派もあるでしょう。
哲学は、極めて重要です。何を実践するかしないか、人の行動に影響します。既存の宗教が導きえなかった若者を「反社会的な行為」までをも肯定する宗教哲学を強制するカルトに誘惑することよって事件を起すことがあります。元来、誠実な若者がどうしたらいいか悩んでいたのでしょう。哲学が浅い、あるいは、実践に苦悩する若者を導きえないからでしょう。
こういっても、私は宗教者ではないので、宗教は布教しません。
V・E・フランクルと同じく、宗教以前の叡智的自己レベルのマインドフルネスがかなり広く
現代日本の問題に貢献できると思っています。
一応、宗教としての仏教にも、深さの違いがあると仏教の研究者がいっていることを見ておきます。
さまざまな宗教も哲学を持っています。その宗教の哲学によって、殺人、集団自殺を肯定するものまであり、人をつきうごかすのです。自殺を肯定しない宗教哲学を持つ信心深いキリスト教の人は自殺や殺人をしないでしょう。行動に影響するでしょう。
誠実な深い仏教哲学や東洋哲学を理解することはとても大切でしょう。
教団によって、その哲学がちがっています。仏教の自己の哲学の深さの違いをみます。
初期仏教は我の空のみ、大乗仏教は我空と法空
初期仏教は、釈尊の死亡の後に、さまざまな部派に分裂しました。それでも、初期仏教の
哲学は似たところがあり、初期仏教の諸派とくくることができます。仏教学者の説です。大乗仏教とは哲学が違います。哲学が違うと、現代的な具体的に社会の現場で実践する援助
法であるマインドフルネスも違ってきます。だから重要なのです。
仏教研究者が、初期仏教と大乗仏教の違いを指摘しています。初期仏教は自分の自我
が空であることを最上、最終だとして、解脱の楽を得て(下記引用文「涅槃に入って満足してしまう」)修行を終わり、苦悩する外部社会の人々の救済が弱かったのです。王、官僚、兵士と、年貢を納める一般庶民の差別があった時代が許さなかったともいえます。
それでも、苦悩を乗り越えていく心得の一般庶民への助言がなされなかったと大乗仏教はそれを批判して、法(ダルマ)の空であることも探求して、社会の人の救済を重
視しました。大乗仏教の経典では、出家でないすぐれた仏教者が僧院の外、社会のさまざまな場所で活躍しています。
出家の自分たちの苦悩解脱で終わりとしたか、さらにもっと先があるという哲学によって一般社会の他者の苦悩まで包含したかの違いのようです。
要だけを仏教研究者の著書からご紹介します。
★ 「部派仏教ではほぼ有とされた法(ダルマ)について、大乗仏教はさらに進んだ立場を
明瞭にした。すなわち、法すらもまた空であると宣揚したのである。その理由として、色とか
心とかという、およそ諸法は仮名にすぎない、という反省があった。名そのものは、対応する
実体そのものではあり得ない。
故に仮名の上のことについて、有るとか無いとか述語するのは、全く無意味である、という
のである。したがって空ということも空じられなければならない。その意味で、諸法は空であ
ると説かれた。・・・
このように人我の空のみではなく、法我の空もまた説かれた。このため、部派仏教では我空
法有を説き、大乗仏教は我法倶空を説いたと称される。」(1)
★ 「この二執・二障の説は、大乗菩薩の修道が小乗声聞のそれとどのように異なるかを
表すものとなっている。声聞は結局、涅槃に入って満足してしまうが、それは我の空しか見
えず、故に煩悩障のみしか対治できないからである。しかし菩薩は、法空も見るが故に、所
知障をも対治して、智を円成し、ということはひいては悲の円満を実現しうる。すなわち利他
度生に生きつづけることが可能となるのである。」(2)
★ 「有部では五位七十五法をいい、唯識は五位百法をいう。」(3)
唯識は大乗仏教の一派です。マインドフルネスに似た実践を重視した集団です。
二執・二障は、エゴイズムや執着の心が主なものです。法、ダルマの中にあります。
ここでは述べませんが、初期仏教が最上、最終の「解脱」とした体験を、大乗仏教の経典では(
大乗仏教もいくつかの宗派によって違う説がありますが)、「無生法忍」(むしょうぼうにん)といい、大体、第7
番目の段階としています。
そして、その後は、人々の苦悩の救済の活動をしていくといいま
す。自我が空である(だから輪廻しない)という無生法忍(大乗仏教の一派唯識では見道、初期仏教では解脱といった
)が第7段階といってもその後は、途方もなく長いのです。なぜなら、人々の苦悩は広
く深いからです。そのような社会の中で援助に働く仏教者を菩薩といいました。
現代にも、さまざまな心理的な苦悩があり、仏教者が援助しきっていません。
だから、大乗仏教の菩薩は「私は悟りをえた。修行が完成した。満足だ。」とはとても言えなかったのです。
こういう社会の人々の苦悩を観ていて、「私は悟った。修行が完成した。偉いだろう。」な
どとは言えないのです。宮沢賢治が「世界が全体幸福にならないうちは、個人の幸福はあ
りえない。」と言った精神です。
鈴木大拙、西田幾多郎などもこのような東洋哲学を欧米に伝えようとしてきました。
東日本大震災、原発事故などで、人生の価値を喪失しました。愛し合うはずの家族が暴力で苦悩し、がんや難病になると何を価値として生きるのか苦悩する人も多いはずです。
日本でも深い哲学が要請されています。人生の価値をいうフランクルが篤いまなざしをもって読まれるのもこの要求の現れでしょう。
今度こそマ
インドフルネスとして、日本にある深い苦悩を乗り越えていく哲学が世界に発信されるべきでしょう。日本は
深い哲学のある幸せな国です。V・E・フランクルが、聖職者しかできないといった領域まで
も包含する、人生に起るすべて全体を包む「全体性」(ジョン・カバト・ツィン)を基礎にしたマインドフルネスがあると思います。従来の方法は一般社会人の苦悩を観ておらず、ついていけない方法になっています。マインドフルネスの開発はこれからです。
- (注)
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(1)2001 竹村牧男「唯識の構造」春秋社、p16
(2)同上、p120
(3)同上、p98