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    ロゴセラピーの「内在の部屋」

     オーストリアの精神医学者、 フランクル は、ロゴセラピ(RT)ーを提唱した。

    ★★ 内在の部屋 ★★

     フランクルの哲学は、西田哲学と大変類似している。ロゴセラピー(RT)は、自己洞察 瞑想療法(SIMT)とも類似するところがある。 「内在の部屋」「宗教」、各宗教が他の宗教を排斥せず互いを受容する「一人類教」 が、西田哲学に類似する。

    実存

     人間とは何か、対象とならない自己存在が「実存」である。RTにおいては、実存は責任存在、価値を 発見して生きるものである。対象とはならない自己である。

     「人間存在を責任存在という方向において分析すること」「人間のこのようなあり方 、つまり、責任存在という現象を究極の根底とする人間のあり方は、実存と呼ばれます 。」(B,p149)

    内在の部屋と超越の部屋

     フランクルは、内奥の自己存在は幾層かに分かれており、全体を「内在の部屋」と呼 ぶ。従来の心理学は、表面の心理現象だけを扱っていて、それを起す「実存」をあつか っていない。だから「内在の部屋」は、普通には見えない「地下室」のようである。そ の地下室が、何層かある。地下1階が、西田哲学でいえば、意志的自己(の部屋) であるが、認知療法でさえもまだ、ここを扱っていなかった。マインドフルネス心理療法が扱いだした。RTは、もう50年も前から、扱っていたようである。地 下2階が叡智的自己(の部屋)に相似する。RTで扱うのは、ここまでであるという。 ここまでが「内在」「内在の部屋」と呼ばれている。人間が行けるところである。 そして、この内在にも、境界があるという。最も奥が「良心」だという(B,155)。 ここまでは、人間の智慧で分かる、RTで行けるという。西田哲学の「意的叡智的自己」に相当する。西田も「良心」という。その上は、「情的叡智的自己」や「行為的自己」に該当する。
     フランクルによれば、ここまでが、「内在」である。海の海中のようである。海面が、対象界、海中が「内在」で、2層に分かれる。
     フランクルによれば、海底の底に、さらに地下に通じる扉があるという。 ここからは「超越」という。もう、人間は行けない。絶対者がいるという。 海底より深いのであるから、地下2階とは、かなり隔たりがあるが、地下3階とたとえておこう。そこは、宗教の部屋である。「実存分析」でも行けないところであり、キリスト教や仏教 など宗教各派が展示されている。 西田も、意的叡智的自己と、絶対無は、断絶があるという。自我を立てていては、体験できない、全く、自己を捨てた時である。フランクルと西田哲学は誠に近似している。

     「実存分析が課題にしなければならないのは、いわば内在の部屋を整えること、ただ し超越への扉を塞がないようにそれを整えることです。宗教精神がそこを通ることがで きるように、あるいは、宗教的な人びとが、あらゆる真の宗教性の特徴である自発性を もってそこから出て行くことができるように、扉はいつも開かれていなければなりませ ん。それゆえ、実存分析は決して人間の究極的な意味発見の終着駅ではありません。と いうのは、実存分析は最終的な答え、少なくとも宗教の観点から見て最終的な答えを与 えるわけではないからです。しかし、実存分析は、その人が宗教的であるか否かにかか わらず、ある駅まで、つまり、そこから終着駅まで《直通する接続》を容易に見つける ことができるような駅まで導くことはできます。実存分析の道程の目的地は確実に宗教 性に至る《路線の上に》あるのです。」(B,pp108-109)

    一人類教

     フランクルのすばらしいところは、さらに深いところへいく扉があるという。 地下4階が「一人類教」であるという。

     「もし価値が見出されるべきであり、万人に妥当するような一つの意味が見出される べきであるとすれば、幾千年も前に一神教を生み出した人類は、この一なる神への信仰 にならって、今やさらなる一歩を踏み出さなければなりません。すなわち、それは一な る人類についての知であります。今日では以前よりもいっそう一人類教が我々に必要な のであります。」(B,p36)

     「一神教の諸宗派は、相互理解と寛容をもって、共通の究極者の究極的な共通性を自 覚することによって互いに結びつきうるのだ、と。諸宗派は、その際、他の諸宗派との 共同性を自覚し、《一神教の一元論》を自覚するようになるのです。しかし、その場合 には、ユダヤ教の最高の祈り《イスラエルの民よ、聞きなさい。われら(各人)の(人 格的なる)神はただ一人である!》は、自らを開いて、次のような祈りにならなければ なりません。−−−汝らすべての民族よ、聞きなさい(すべての一神教の宗派よ、聞き なさい)。われら(各人)(各宗派)の神はただ一人であり、唯一にして同じ方である 、と。」(B,p103)

     西田幾多郎も、キリスト教、道元の襌、親鸞の浄土真宗が同列にあると見ている。 私のたとえでは、みな地下3階である。 その共通の基盤が、絶対無の場所であるという。地下4階である。 一切の自分の宗派の思想に執着せず、客観的立場、世界の立場、学問の立場である。日本の仏教各派の学問も、これになっていない。浅い立場に執着して、真実を明らかにしていない。西田幾多郎や少数の仏教学者、哲学者が指摘している。フランクルも指摘している。

    現代の仏教は浅くなった

     50年前から、フランクルのように深い哲学も欧米の人は見ているので、欧米のマインドフルネス心理療法者は、現代日本仏教の浅いことを嘆いて、失望しているだろう。開祖の思想はフランクルのように深かったのであるが、近現代の歴史の中で大切なものを見失い、学問もそれを指摘していないという。そのために、教団の中でさえも、生きる意味、生きがいを、葬儀、観光、執筆、研究、教育やボランティア活動などに見出す「自由」を行使する人が多い。 「苦悩する衆生を忘れるな」とか「慈悲」(苦悩する一般人の救済)の実践という宗教の根幹は、精神科医、心理カウンセラー、精神療法者に移った。 マインドフルネス心理療法も深いもの、宗派を超えて、宗派を包むものを基礎にしないと、現代人の深刻な苦悩を克服することの道を示すことはできないだろう。

    ロゴセラピー(RT)も自己洞察瞑想療法(SIMT)も宗教レベルではない

     フランクルは、深い宗教哲学まで見据えている。しかし、フランクルのRTは、自己存在を探求するが、宗教には入らない。宗教への扉 を開いておくという。そこは、医師、精神療法者が扱えないで、宗教体験のある聖職者(宗教者)しか扱えないという。
     自己洞察瞑想療法(SIMT)のセッション10までは、自己存在でも浅い「意志的自己」 であり、絶対に宗教ではない。だから、どの宗教の人でも、無宗教の人でもできる。
     フランクルはいう。医師が宗教に触れてはいけないと。つまり、 たとえば、「そのような宗教はおかしい」とか「そのような信仰を捨てなさい」とは言わない。 また、医師はRTもできない と。RTができるのは「精神療法者」だという。ロゴセラピーのスキルが必要なのだ。そして、宗教へ導けるのは、聖職者だけだという。宗教体験が必要なのだ。 宗教は、このように大変深いものであり、誰でも導けるものではない。 自己洞察瞑想療法(SIMT)のカウンセラー講座を受けた人は、宗教に導くことはできない。 宗教は半年の講座で体験できるものではない。

    それでもなお宗教レベルのマインドフルネスが必要

     たいていの苦悩は、意志的自己、叡智的自己レベルのマインドフルネス心理療 法で解決支援できると私は思う。しかし、それでもなお、宗教レベルでないと満足できない クライエントがいると思う。自己存在そのものの消滅(死)や自己自身の評価の低い苦悩がある。その領域は、支援者側もクライエントも両方が真剣でなけ ればならないと思う。襌でも念仏でもなく、無宗派の方法があるのではないかと思う。 なぜなら、キリスト教、襌、念仏が同列であるなら、もう一つあってもいいはずである から。成就するかどうかわからない(あきらめないクライエントと支援者双方が現れる必要があり、しかも、終末期の方で は時間が短い*)が、今後の50年、100年に、世界中のマインドフルネス心理学者 がその開発に入っていくような気がする。聖職者の領域といわれていながら、 十分行われていないのだから、マインドフルネスのカウンセラーが行うことになるだろう。 東西の宗教の対話、共通性の理解も進むこと期待したい。

     繰返すが、セッション10までの自己洞察瞑想療法(SIMT)は、宗教ではありえない。 どの宗教の人も安心して実践して、さまざまな問題を乗り越えていただきたい。そして、それぞれの人が尊重している 「その宗教」への扉が開かれていることがわかるだろう。そして、宗教への扉を開かず に、宗教ではないところで、創造や体験や態度の価値ある人生を生きることができる。 どの宗派の扉を開くかも、宗派でない哲学(西田哲学やフランクルの哲学など)の扉を開くのも、そういうものの扉を開かず、意志的自己の部屋で生きることを選択、決断するのも、全く個人の「自由」である。組織が、個人の生きる意味まで、強制することはできない。生きがいを発見できない組織の方針には、従わない自由を持っている。