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場所の論理(2)

=マインドフルネス心理療法と西田哲学

 マインドフルネス心理療法の救われる構造を西田幾多郎の言葉で簡単に見ている。 西田幾多郎は<自己>を哲学的に記述した。哲学は心理療 法ではないが、マインドフルネス心理療法と似たように、自己や精神活動について記 述している。 マインドフルネス心理療法に応用できるようなところをみている。

絶対無の場所

 「意識の野」はあらゆる意識の対象と意識作用を自己の内に包む場所である。西田によれば、 これが究極の場所ではない。もっと深い場所がある。「絶対無の場所」という。
 場所とは、物がある空間であり、物と物とが関係する空間であるが、物と意識作用が関係する 場所もある、これは物理的空間ではないので無の場所という。対象と関係作用と場所とを区別す ることができる。 机、イス、学校、山や川、人、君(汝)が於いてある「空間」が「有の場所」であり、意識現象 や意識作用がある「意識の野」であるが、「相対的無の場所」「対立的無の場所」といい、最も 深い場所を「絶対無の場所」という。  「真の場所は自己の中に自己の影を映すもの、自己自身を照らす鏡という如きもの」(2)という 。知識が成立する場所であり、感情、意志、直接経験(真の直観)が成立し、あらゆるものが於 いてある場所である。  3つの場所があるが、これら3つは離れた場所にあるものではなく、重層的に同一の場所にあ る。意識の野は一切の物(有)と空間を含み(包む、包摂する)それらを対象とする。意識の対 象や意識の野を包む場所が「絶対無の場所」である。絶対無の場所にすべてのものが包まれる。 絶対無の場所からみれば、有の場所、意識の野は特殊化であり、自己限定面である。絶対無の場 所は他のものの外にそれ単独で存在せず、自己の外にあるものでもない、自己の根底にある。

マインドフルネス心理療法への方法

 マインドフルネス心理療法はこういう構造を前提とした治療技法を持つ。マインドフルネス心 理療法の一つ、 アクセプタンス・コミットメント・セラピー(ACT)において、3つの自己(概念としての自己 、プロセスとしての自己、文脈としての自己)の理論と手法(鏡やチェスの瞑想法)に応用され ている(4)。 弁証法的行動療法では、3つの心(情動の心、合理的な心、賢明な心)の概念が提示される (5)。自己洞察瞑想療法においても、4つの智慧(苦悩の智慧、合理的智慧、無評価の智慧、直観 的な叡智)を提示している。人は「自分とはこういうものだ」という 自己観を持つ。それが嫌悪的、否定的な自己であれば、精神疾患を重症化させて、治癒が困難と なる。個人の智慧が「自己」というものを見る深さによって異なる自己を描く。
 こうしたマインドフルネス心理療法においては、自己についての深い探求をクライエントにう ながして、深い根底の自己にめざめさせて、自己嫌悪、自己否定(客観も自己と同一であるから、同時にうつや不安の対象である客観の嫌悪からも)から超え出ていくことで、精神 疾患を改善に導こうとしている。鏡、器、舞台、ゲーム盤、海、大河のような根底が「自己」で あるとみて、種々の悩みの対象、不快事象、思考、感情、行動、症状などはすべて、映るもの、 入るもの、演じる役者、チェスの駒、表面の波、流れ行くみず・ちりと見るトレーニング(6)を 重ねることで、自己の安定性、信頼性を向上させていく。もちろん、西田のいう「絶対無の場所 」まで深くめざめる必要はない。瞑想法(呼吸法を多用する)を毎日30分程度の実行と日常生 活の行動中にも、探求することで、大体、1年から2年程度で完治する。そういう状況からみれ ば、マインドフルネス心理療法における根底の自己は西田のいう絶対無の場所までは深める必要 はないと言える。絶対無の場所まで身体的に探求するのは宗教的(7)である。マインドフルネス心理療 法は医療、予防医療であって、宗教ではない。深い自己を探求する瞑想法を精神疾患の治療のた めに応用したものである。運動や絵画などが精神疾患や問題行動の治療、予防に用いられている のと同様の瞑想の現代社会問題への応用、貢献である。
 直観も行動もすべて根底の自己の活動であり、そこにおいて「行為的直観」の立場も出てくる 。  (続)