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西田哲学目次
場所の論理(2)
=マインドフルネス心理療法と西田哲学
マインドフルネス心理療法の救われる構造を西田幾多郎の言葉で簡単に見ている。
西田幾多郎は<自己>を哲学的に記述した。哲学は心理療
法ではないが、マインドフルネス心理療法と似たように、自己や精神活動について記
述している。
マインドフルネス心理療法に応用できるようなところをみている。
絶対無の場所
「意識の野」はあらゆる意識の対象と意識作用を自己の内に包む場所である。西田によれば、
これが究極の場所ではない。もっと深い場所がある。「絶対無の場所」という。
場所とは、物がある空間であり、物と物とが関係する空間であるが、物と意識作用が関係する
場所もある、これは物理的空間ではないので無の場所という。対象と関係作用と場所とを区別す
ることができる。
机、イス、学校、山や川、人、君(汝)が於いてある「空間」が「有の場所」であり、意識現象
や意識作用がある「意識の野」であるが、「相対的無の場所」「対立的無の場所」といい、最も
深い場所を「絶対無の場所」という。
「意識するということと、知識の対象界に映すということがすぐ一つに考えられるが、厳密なる
意味において知識の対象界に情意の内容を映すことはできない。知識の対象界は何処までも限定
せられた場所の意味を脱することはできない。情意の映される場所は、なお一層深く広い場所で
なければならぬ。情意の内容が意識せられるということは、知識的に認識せられるということで
はない。知情意に共通なる意識の野はそのいずれにも属せないものでなければならぬ。
最も深い意識の意義は真の無の場所ということでなければならぬ。概念的知識を映すものは相対
的無の場所たることを免れない。いわゆる直覚において既に真の無の場所に立つのであるが、情
意の成立する場所は更に深く広い無の場所でなければならぬ。この故に我々の意志の根底に何ら
の拘束なき無が考えられるのである。」
(1)
「真の場所は自己の中に自己の影を映すもの、自己自身を照らす鏡という如きもの」(2)という
。知識が成立する場所であり、感情、意志、直接経験(真の直観)が成立し、あらゆるものが於
いてある場所である。
「いわゆる自覚的意識とは、此の如く知覚的なるものも、思惟的なるものも直接にこれに於い
てある場所である。自覚的意識面とはあたかも対立的無の場所にあたるであろう、我々が普通に
意識面と考えているものはこれである。
しかし我々はなお一層深く広く、有も無もこれに於いてある真の無の場所というものを考える
ことができる、真の直観はいわゆる意識の場所を破ってただちにかかる場所に於いてあるのであ
る。対立的無の場所は限定せられた場所として、なお主語的意味を脱することができないから、
すべて超越的なるものを内に包摂することはできぬ、真に直観的なるものはかかる場所をも越え
たものでなければならぬ。いわゆる感覚的なるものも直観的なるものとして、その根底はいわゆ
る意識面を破って真の無の場所に於いてあるのである。」(3)
3つの場所があるが、これら3つは離れた場所にあるものではなく、重層的に同一の場所にあ
る。意識の野は一切の物(有)と空間を含み(包む、包摂する)それらを対象とする。意識の対
象や意識の野を包む場所が「絶対無の場所」である。絶対無の場所にすべてのものが包まれる。
絶対無の場所からみれば、有の場所、意識の野は特殊化であり、自己限定面である。絶対無の場
所は他のものの外にそれ単独で存在せず、自己の外にあるものでもない、自己の根底にある。
マインドフルネス心理療法への方法
マインドフルネス心理療法はこういう構造を前提とした治療技法を持つ。マインドフルネス心
理療法の一つ、
アクセプタンス・コミットメント・セラピー(ACT)において、3つの自己(概念としての自己
、プロセスとしての自己、文脈としての自己)の理論と手法(鏡やチェスの瞑想法)に応用され
ている(4)。
弁証法的行動療法では、3つの心(情動の心、合理的な心、賢明な心)の概念が提示される
(5)。自己洞察瞑想療法においても、4つの智慧(苦悩の智慧、合理的智慧、無評価の智慧、直観
的な叡智)を提示している。人は「自分とはこういうものだ」という
自己観を持つ。それが嫌悪的、否定的な自己であれば、精神疾患を重症化させて、治癒が困難と
なる。個人の智慧が「自己」というものを見る深さによって異なる自己を描く。
こうしたマインドフルネス心理療法においては、自己についての深い探求をクライエントにう
ながして、深い根底の自己にめざめさせて、自己嫌悪、自己否定(客観も自己と同一であるから、同時にうつや不安の対象である客観の嫌悪からも)から超え出ていくことで、精神
疾患を改善に導こうとしている。鏡、器、舞台、ゲーム盤、海、大河のような根底が「自己」で
あるとみて、種々の悩みの対象、不快事象、思考、感情、行動、症状などはすべて、映るもの、
入るもの、演じる役者、チェスの駒、表面の波、流れ行くみず・ちりと見るトレーニング(6)を
重ねることで、自己の安定性、信頼性を向上させていく。もちろん、西田のいう「絶対無の場所
」まで深くめざめる必要はない。瞑想法(呼吸法を多用する)を毎日30分程度の実行と日常生
活の行動中にも、探求することで、大体、1年から2年程度で完治する。そういう状況からみれ
ば、マインドフルネス心理療法における根底の自己は西田のいう絶対無の場所までは深める必要
はないと言える。絶対無の場所まで身体的に探求するのは宗教的(7)である。マインドフルネス心理療
法は医療、予防医療であって、宗教ではない。深い自己を探求する瞑想法を精神疾患の治療のた
めに応用したものである。運動や絵画などが精神疾患や問題行動の治療、予防に用いられている
のと同様の瞑想の現代社会問題への応用、貢献である。
直観も行動もすべて根底の自己の活動であり、そこにおいて「行為的直観」の立場も出てくる
。
(続)
(注)
- (1)
「場所」岩波文庫、西田幾多郎哲学論集、1巻、84頁。旧全集巻4-224。
-
(2)同上、86頁。旧全集巻4-226。
-
(3)同上、148頁。旧全集巻4-286。
- (4)「アクセプタンス&コミットメント・セラピーの文脈」ブレーン出版、102頁〜。
- (5)「境界性パーソナリティ障害の弁証法的行動療法」マーシャM・リネハン、誠信書房、289
頁〜。
- (6)マインドフルネス心理療法の瞑想法は、精神疾患を治癒させることを目標とする独特の瞑
想法である。瞑想法には何百種もあるというが、マインドフルネス心理療法の瞑想法は根底の自
己探求のものである。
- (7)論理的に探求するのが哲学である。
西田によれば真宗や臨済宗、曹洞宗などの「宗教」がある。
西田幾多郎は、禅や浄土真宗のもっとも深い場所の自覚体験について哲学的に論じている。マインドフルネス心理療法における自己の深まりはあってもなお、かなり浅いもので十分である。
「宗教」にも種々あるが、自己の外に絶対者がある(自己の根底に否定を介して自己同一でなく、自己があり自己の外に)とみる「宗教」も多いが、西田哲学から見
れば、それは意識で対象化されたもの、思惟の産物となろう。
マインドフルネス心理療法のうち、意志的自己、叡智的自己までは、絶対者をいう必要がなく「宗教」
ではない。
「宗教」は、開祖の思想や実践を絶対視して、それ以外のことをしない傾向がある。
そういう宗教ではなくて、マインドフルネス心理療法(SIMT)は、
自己の精神活動の全体と苦悩の真相を探求して、自己の根底を
掘り下げて、信頼できる自分を自覚するものである。
ただし、「宗教的」な問題で苦悩する人がいるので、宗教的マインドフルネスの開発も必要である。自己嫌悪、自己の罪、自己の死(たとえば、がん患者)についての苦悩である。こういうものは、
開祖の思想による宗教ではない。がん患者の支援領域ならば、死の不安の心理的ケアである。