Home > 西田哲学目次

場所の論理(5)
 =「絶対無の場所」の自覚から心理療法へ

 =マインドフルネス心理療法と西田哲学

 マインドフルネス心理療法は禅の哲学(西田哲学、多分、人の心の真相の哲学)によってささえられている。心の病気がマイン ドフルネス心理療法で救われる構造を西田哲学(西田幾多郎)の言葉で簡単に見ている。

「絶対無の場所」の自覚から心理療法へ

 前回、 「哲学から心理療法の開発へ」で記載した心理療法と西田哲学との関係を今度は「3つの場所 」から考えてみる。我々の現実の世界は主に3つの層をなしている。(意識の野と「絶対無の場所 」との間には種々の世界がある)  西田哲学には「絶対矛盾的自己同一」の哲学がある。現実の世界、現実の人間は 、対立、矛盾するものがその矛盾のままで否定を介して自己同一であるという。自己と世界(主観客観)、過去 と現在と未来、直観と行為、生と死などである。
 ここでは、自己(主観)と世界(客観)が自己同一ということを考えてみる。マインドフルネス 心理療法として最も重要な哲学である。「絶対無の場所」の哲学からみてみると、主観が実在して 客観との対立のままで同一というのではない。 主観(私)が世界とは別に独立してあって、私の外に世界(客観)があると思っているかもしれな い(図の上半分)。だがそれは間違いであるという。主観は思考の産物であり実在せず、現実には 主観はないのである。自己なく、ただ意識現象があるのみだという。それを自分と錯覚する。 身体的自己は世界の中にいる。自己の場所に、ものがある、 世界がある。 我々の現実は、「私」というものなくして、見えるもの(他者、社会、自然、山川、世界)、聞こ えるもの、苦痛の対象が現われている。私の外にではなく、私の場所に、ここの根底に。 自己と客観がそれぞれ独自に存在するのならば、自己は客観を認識することはできない。 主観と客観が同一、外と内が同一である。西田によれば、 直接経験されるもののみが実在である。直接経験に根拠をおかない単に思惟されたものは実在では ない。
 直接経験の時には、主観客観が分離していない、知情意(知識、感情、 意志)が分離していない、こうした統一の状態にある時、無意識である。この統一が破れて、意識 されて、思惟が起こり、思惟の対象となって主観客観、知情意が分裂する。直接経験その ものは、豊富な情報を含むが思惟の対象で知るのは一部であり、豊富な情報の実在そのものを表わ してはいない。たとえば「走る馬」を直観している時には、馬についての無限の情報がある、実在 である。ところが「馬が走る」というのは思惟であり、情報が貧困である。どんな馬か全くわから ない。思惟は実在そのものを表さない。 自己を知る反省、自覚は重要であるが、そこを遠く離れた推理、連想、予期、判断などの思惟は危険である。事実を表さず、自己を知らない状態である。 行為の真最中の時にも自己意識はない(その時だけであるから相対的無意識といおう)が、 行為的直観に根拠を持つ思惟は直観を離れない限り、限定した知 識をもたらす。「自分はうつ病だ」「自分は価値がない」などの判断も実在を遠く離れた誤りであ る。誤った思考は放棄したほうがいいとマインドフルネス心理療法は助言する。肯定的な自分評価 に修正するのではない。評価をしないのである。
 我々の現実の世界は、行為的直観的に移り行くので、無意識(自己意識がないという意味。対象は意識されている)であるから、意識は現実そのままを認識で きない。意識された時は、行為的直観が中断している。実在そのままを知る反省、自覚による知識も、感情そのもの、意志そのものも意識では把握できない。意識された時は、現実の知情意は過去 となり、思惟の対象であり、そのものではない。
 現実の知情意の根拠である実在そのものは、意識される意識より深いところから起きる。意識の対象となる ものも意識の野もつつんで、さらに意識の対象にならないものをも包む極限が「絶対無の場所」で ある。実在は行為的直観、直接経験のみである。それは無(自己)意識であるが、自己の根底である。意識 されるものもされないものも実在するもののすべてが、自己の根底から生じる。

マインドフルネス心理療法へ

 無意識の活動では自他、知情意が分裂しておらず、意識の対象となる苦悩はない(ただし、苦痛の思考は無意識であっても神経生理学的フュージョン(連合)により障害をもたらす)。苦悩は、思惟 、比較、評価、判断によって起きる。自己の裁量、自己の細工を働かせるから苦悩する。「小さな 自己」は実在しないのだから、その現実のままに自己を空しくして、自己を脱落させて、精神現象 を観察すると、図の下のように、自己の意識よりも深い場所から生じるものがあることが了解され る。呼吸法を実行してみると、いつのまにか、呼吸が意識されない状態となりしばらくして、反省 が起こり、思惟していたことに気づく。すなわち、思惟している真っ最中は、自己自身の思惟活動 を意識していない、思惟も無意識で動く(認知療法でいう「自動思考」)。見る、聞く、感情、意 志も意識以前に生じることが自覚される。 多くのものが意識より深い場所から起きることが体験的に知られる(直観的な叡智の一部)。不快 だと思う(思惟、評価、判断)のは苦痛である。苦痛の対象も意識、思惟よりも深いところから起 きるのであれば、意識や思惟で、消えることを願う(嫌悪)、操作しようとする(感情や症状など 消そうとする)ことの無駄なことが理解される(直観的な叡智の一部)。
 意識にのぼってきたものはすでに過去である。それを反省して自己を知り適切な意志を起すのがいいのだが、事実を離れて思考、嫌悪、評価するのは、二重、三重 の苦痛となる。すでに起きてしまったものを嫌悪しても遅い。戻らない。嫌悪の評価は統一の分裂 である。嫌悪の思考を持続させている間、健康な行為的直観が消える、次の現在が見えていない。 仕事や役割行動が停止している。それが多いと社会生活、職業生活がそこなわれる。

神経生理学的フュージョン(連合)

 ここまでは、哲学的に言えるが、哲学を超えた神経生理学的領域の苦悩がある。 うつ病は、種々の症状があるが、抑うつ症状、喜びの喪失、社会職業生活の遂行機能の低下が大き い。 抑うつ症状は帯状回や大脳辺縁系のどこかが亢進状態であると推測される。喜びの喪失は報酬系( ドーパミン神経など)の機能不全が推測される。 社会職業生活の遂行機能(作業記憶、判断、集中、コミュニケーション、意欲など)の低下は前頭前野や帯状回の 障害が推測される。こうした機能障害は、心理的ストレスによって、交感神経やHPA系(視床下 部ー下垂体ー副腎皮質)が亢進することによって、関係部位を障害するために起きることが推測されている。
 健康な行為的直観を中断して、客観(他者、職業、職場など)でも主観(自己)でも自己同一で あるから、思惟によってどちらを不満嫌悪しても、陰性の感情が起こり、神経生理学的フュージョン(連合)が 起こる。思惟も無意識で発展する。無意識、意識のいずれの思惟の場合も感情が起こり、感情も意識よりも深い場所でおこり、反省によって役割行動を意志しないで、事実から離れた連想、推理などの思惟によって、それを苦悩する。感情は意識よりも 深いところで起こり、無意識の思考(自動思考)によっても意識下で感情の作用は神経生理学的フ ュージョン(連合)を引き起こす。神経生理学的フュージョン(連合)が、前頭前野などの機能障 害を引き起こす。こうした構造であるから、うつ病は薬物療法を受けても、その間に、苦悩の思考 、感情を抑制しないと治りにくい。前頭前野などの機能低下が回復するような治療をしないと治り にくい。健康な行為的直観の多い生活ができず、主観客観の合一の統一を破り、否定的嫌悪的思惟 によって陰性の感情をもたらす生活が多いと再発することは容易に推測される。 薬物療法は、主観を脱落して主観客観の合一という自己の現実を知る直観的な叡智をもたらすこと はとうてい望めない。

マインドフルネス心理療法の手法

 以上の考察からいくつか、マインドフルネス心理療法独特の技法が生まれる。

ターミナルケア

 余命があまり長くないという人が自己の死について苦悩することがあるはずだが、余命いくばく もないので心理療法を受けること、メンタルケアの方面の救済を求められる医療者、家族は少ない のだろうが、西田哲学の実践は益になるに違いない。 単なる自己はない、実在するのは絶対に包まれた世界と自己同一の自己であるという自覚的直観の哲学的実践的な探求は 必ずターミナルケアに貢献するに違いない。世界と対立する自分はないのであれば、「自分は死な ない」と言ってよいのだから。それは宗教的というほどの心の翻りだが、余命いくばくもない時に 、宗教的というほどの心の翻りが起きるのが間にあうのか難しい問題だ。 がんは2〜10年もの長い闘病生活だと聞く。告知された時、うつ病になる人も多いと聞く。多く の人ががんになる。高齢になったら、「することがない」と言わず、自己の探求をしてもいいので はないか。 思惟、論理的な理解、哲学にとどまれば魂(場所)の救済にはならない。自己を空しくする、自己 を脱落することが現実に実現することでしか魂(場所)はやすまらないだろうから。