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マインドフルネス心理療法
西田哲学とSIMT・目次
自己洞察瞑想療法と西田哲学
=禅の哲学、西田哲学を心理療法に
第2節 意志作用
=思考や感情などによる衝動的行動とそれらを統合した自由意志
生きていく上で、種々の悩ましいことや不快なことが起きる。そういう不快事象がある時に、対人関係を悪化させる行動や社会生活から逃避するわけにはいかない。適切な行動ができずに、苦悩する思考を継続しているとうつ病その他の精神疾患になるおそれがある。不快事象が起きても、自己の役割をはたす行動が目的実現の行動である。合目的的行動の時に働く統合的な精神作用が意志作用である。
第1 目的をめざして行動を決意し実行する意志作用
西田は「意志」について次のように述べている。
「意志はある目的の自覚より起こり、その目的を達することによって消滅する。・・・合目的的作用というものが成立するには、その終わりに現われるものが始めに与えられ たものでなければならない。合目的的作用とはその前後を包むものが、自己自身の内容 を限定する過程と見ることができる。・・・かかる意味において我々の意志の奥底に考えられる真の自己とは、我々の意志を超越し てこれを内に包むものである、我々の意志はかかる自己によって基礎づけられているの である。」(「叡智的世界」(西田幾多郎哲学論集T、岩波文庫、201頁、(以下、文庫T-xx頁と表
記)。
「意志的動作即ち行為の過程を分析して考えて見ると、先ず我々の自己を唆(そその)かす現状 と異なった願わしき自己の状態即ちいわゆる目的観念なるものが現われ、我々の意識が傾斜の状態 をなすと共に、この両者を結合するため、過去の経験から目的に達する道行の観念即ち手段の観念 が喚起され、この結合が十分と考えられた時、即ち客観的に可能と信ぜられた時、決意の感情と共 に動作に移るのである、即ち主観的意志内容から客観的事実に転ずるのである。」(「意識の問題」西田哲学旧全集3巻、141頁 )。
自己(私)は、知覚(内部、外部)、思考、感情などの種々の精神作用を起すが、一つにふりまわされて、目的(人生の価値実現、幸福)を失うような行動をしてはいけない。種々の精神作用は「目的」の実現のために統合的に観察して、目的にそった行動を決意しなければならない。そういう統合的な合目的的精神作用が「意志」である。
目的を思い浮かべて、それを実現するための行動をとる。実現するのに不快事象があっても、目的を失わずに、行動するのが意志作用である。不快事象は、相手の言葉、動作、自己の感情、痛みなどの症状などがある。こういうことが意識されるのは、それぞれの作用と対象があるのであるが、それに振り回されては目的行動を中断してしまうので、不快事象を感じながらも受容して、目的に向かっての行動を決意して実行するのが意志作用である。
そのような意志をささえる自己(叡智的自己)があるはずである。
第2 意志作用
西田は意志作用についてさらに詳細に記述している。
「自覚的なるもの自身の内容が意識せられるには、自覚的一般者に於いてあるものの意味が深められねばならない、自己の中に自己を映すという自覚的有の意味が現われて来なければならない。しかして、それが可能になるには、我々は知的自己の立場から意志的自己の立場(作用の作用の立場)に移り行かねばならぬ、したがって我々の意識面も・・・自己自身の内容を映す自覚的意識面という意味に変じて行かねばならぬのである。」(文庫T-194頁)。
知覚、思考などの対象的な知識の「作用」ではなく、作用自身を知る「作用の作用」の立場、意志的立場がある。
(注)自覚的一般者
「いわゆる意識的世界を包む一般者。一般に、意識作用は「自己の内に自己を見る」とか、「自己の内に自己を映す」とかいった自覚的性格をもつので、「自覚的一般者」と呼ばれる。『自覚に於ける直観と反省』(大正6年)以来、「自覚」とは、「自己の内に自己を映す」ことであるとか、「自己が自己に於いて自己自身を見る」ことである、と考えられてきた。」(小阪2叡智的世界、13頁)
(注)知的自己
「自覚的一般者においては、先の判断的一般者の内容を自己の意識内容とする知的自己が見られるが、しかしこの自己はまだ真に自己自身の自覚的内容を持たない意識作用にすぎない。それは対象を意識する作用ではあっても、そうした自己自身の作用を反省する自己ではない。」(小阪2叡智的世界、30頁)
(注)判断的一般者
「いわゆる自然界を包む一般者。通常、自然界にあるものは判断の形でいいあらわされる
から、自然界は判断的一般者とか判断的世界とか呼ばれる。」(小阪2叡智的世界、12頁)
「意志するということは、知って働く、働くことを知る、知りつつ働くことと考えられるから、単に対象の志向というごとき純知的態度とは全くその類を異にするように考えられる。しかし、働くことは知ることではない。私が働くといっても、その私は知られた私であって、知る私ではない、知る私は働く私を、すなわち私の変化を見ている私でなければならない。志向ということから考えれば、知る私においては、志向せられるものが志向するものであり、志向するものが志向せられるものでなければならない。」(文庫T-195頁)。
(働く作用は知覚や思考のような単に対象を知る作用ではない。働くためには働く私を知る必要がある。)
「かかる私が働くとはいかなることを意味するか。働くということは、まず変ずるということでなければならない。かかる私が知るという性質を維持しながら変ずるというには、志向するものに向かう志向の方向、すなわち内に向かう方向が志向するものに達せない、志向するものの内容が志向せられる内容より大きいと考えられねばならない、両者の間に間隙がなければならない。しかし、この二方向が離れてしまえば、私というものはない、したがって私が働くというごときこともない。」(文庫T-196頁)
(目的を達しようとして働く。働くにつれて自己の作用、対象が変化する。変化を知りつつ行動する、また変化する。その状況では、今の瞬間に(対象的に)志向せられるものよりも、志向するものの内容が大きい。)
「働く私というものが考えられるには、変化の一歩一歩が志向せられるものと志向するものと合一する知るものであって、しかもそれが変じて行くものでなければならない。かかる知る私の連続が働く私と考えられるのである。かくして働く私は知る私を含むということができる。」(文庫T-196頁)。
(目的行動は最終目的(達するのに一定の時間と行動が必要)を実現するために多くの短い行動の連続である。一歩一歩(志向されるもの)が目的方向(志向するもの)に合致していることを知る。行為し行為の結果と目的が合致していることを知りつつ、次の行動に移る。それたら、意志により修正、中断する。意志は強い、何かの刺激や目的との乖離を知ると、意志によって低次の作用を中断したり、志向を変えることができる。すると、精神作用は非連続の連続である。)
第3 心理療法へ
うつ病や不安障害などになると思考作用、感情作用は活発である。しかも否定的、悲観的な思考、ネガティブな感情である。思考や感情よりも高次の意志作用がある。感覚、思考、感情などの推移を観察しながら、自己の目的に合致した行動を検索して決意して実行する。すぐに状況(感覚、思考、感情として)が変わるので、その変化を観察して、行動を継続、修正、中止、他の行動への可能性の検討、決意、実行ということを行うという、低次の種々の精神作用を統合しなければならない。それが意志作用である。対象的な思考作用にはそういう高次の統合作用はない。
こういう意志作用が低下しているのがうつ病、不安障害などである。感覚(動悸、痛み、過呼吸、はきけ、抑うつ症状など)、感情(不安、怒り、いらいらなど)、思考(視線、不遇な状況、対人関係の不満な言葉など)の種々の低次の作用の対象にふりまわされてしまい、建設的な合目的的行動ができない。その結果、脳神経生理学的な変調も起きる。それによって生じる症状や思いどおりにならない状況をまた低次の作用(思考作用など)の対象とする。自己の種々の精神作用を知らず、意志作用を活性化させていない。
意志作用を活性化させ、叡智的自己の自覚により、自己肯定感を向上させていくのが自己洞察瞑想療法である。従って、思考レベルの「認知のゆがみの修正」ということよりも、認知(思考の対象)を含めてすべての精神作用を統合する意志作用の活性化に重点がおかれているのが、自己洞察瞑想療法(SIMT)である。