真の自己とは
マインドフルネス心理療法と哲学
自己の永遠の死=西田幾多郎
自己洞察瞑想療法(SIMT)は、禅の実践、西田哲学、脳神経生理学などを融合させて開発された心理療法である。種々の問題、精神疾患は、ある程度までのマインドフルネス心理療法の技法で解決するだろう。しかし、自己とは何かについて深く悩む人や死を自覚するターミナルケアの段階にある人の問題についてのヒントをマインドフルネス心理療法は与えることができるのだろうか。
自己洞察瞑想療法(SIMT)は宗教ではないが、うつ病、がんの領域は死の問題が隣接している。自死と強いられるがん死。うつ病でも最も深刻な領域、宗教に最も近い領域で、自己洞察瞑想療法(SIMT)は貢献できるのだろうか。西田哲学でさぐってみたい。
西田幾多郎は自己の永遠の死の自覚、禅、念仏、キリスト教による救いをいう。ここに、ターミナルケアの人が、自己洞察瞑想療法(SIMT)(マインドフルネス心理療法)を知りたいという時に、ヒントがあるかもしれない。数多くの出版でとかれている仏教とはかなり違っている。禅を実践して、自己について探求した哲学者の宗教観である。
「自己の永遠の死を自覚すると云うのは、我々の自己が絶対無限なるもの、即ち絶対者に対する時であろう。絶対否定に面することによって、我々は自己の永遠の死を知るのである。」
「我々の自己の底には何処までも自己を越えたものがある、しかもそれは単に自己に他なるものではない、自己の外にあるものではない。そこに我々の自己の自己矛盾がある。此に、我々は自己の在処に迷う。」
「自己の永遠の死を知ることが、自己存在の根本的理由であるのである。」
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場所的論理
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逆限定・逆対応
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生死即涅槃
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絶対矛盾的自己同一
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自己を越えたもの
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行為的直観
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禅について
西田が実践によって探求した真の「自己」とはいかなるものであるか、それを論理的に説明した。西田哲学の焦点は「逆対応・逆限定」の思想にある。
場所的論理
西田の哲学は、難しく、その後継者でも理解しているとは限らないという。秋月龍a元花園大学教授の解釈で見てみる。秋月教授は、次のように言う。
「私の結論を述べよう。西田哲学の西田哲学たるゆえんのものは、「場所的論理」にある。そして「場所的論理」の焦点は、「逆対応の論理」にある。」(Y356)
西田哲学の焦点は「逆対応・逆限定」の思想にある。そこで、この思想を眺めてみる。
まず、「場所」という言葉がわかりにくいが、常に自分の絶対現在のいるところである。ただの空間的場所ではない、自己自身の最も深い心の場所、自分の生まれ、生きて、死ぬ、時であり場所である。自己、今、ここのきりむすぶ場所。
「場所とは対象的に観ずるものでなく自己のいる場所ではないですか。」(E364)
直接、西田の言葉にかかるとわかりにくいが、「逆対応・逆限定」の論理について、秋月教授は、次のように要約している。
「限界的底面における実存のハタラキはかならず逆のハタラキ(場所的逆限定)を引き起こし、その逆のハタラキ(逆限定)においてかえって実存の真のハタラキ(真の限定)が現れる。」(Y186)
「これは論理の問題として見れば、
実存の論理においては、真の肯定はかならずその否定を伴い、真の否定はかならずその肯定を引き起こす。
という形になる。これが「場所が場所を限定する」と言われ、また「場所的<逆限定>」と呼ばれるものの論理の形式である。」(Y186)
私自身が生きているまさに絶対現在のところ(ここ、自分の、心の根底)において(いつもそこにしか生きていない)、自我のハタラキと絶対者(神、仏、超越者)のハタラキは逆の関係にある。自我を無にする、無心、無私、私心なくハタラク時ほど、そこに絶対(神)のハタラキが現れる。
ごく、至近な例をあげれば、スポーツをしている時、勝ち負け、名誉などを気にしている時、そのスポーツ選手の力は最大限には発揮されない。無心でスポーツする時、最高の記録が出る。だからスポーツも高度になるほど精神面が重要となる。政治においては、自己の利益、権益を維持、増殖させる底意を持つ政治家ではなく、そういうことを抜きに私心なく働く政治家の活動は、神のごとく国民全体の幸福をめざす清廉誠実な活動になるのだろう。宗教者が自分の名誉、財産などの利益を問題にせず、真に私心なくハタラク時、神に等しいハタラキになり、苦悩する人を誠心に助言するだろう。一人の生命を救うためには、教団の崩壊もかまわないのが、神の意志であろうか。
では、西田の言葉を引用する。哲学用語の「限定」という言葉があるが、「私が話をする」とか、「君が酒を飲む」とかいう「個」のハタラキを、哲学の言葉では「個体の自己限定」という(Y177)。「限定」は「ハタラキ」と読みかえればよい。自己が深まるにつれて、判断、意識作用、直観、絶対否定などが限定作用となる。
逆限定・逆対応
「真の個人は絶対現在の瞬間的自己限定として成立するのである。」(C362)
「神と人間との関係は、人間の方からいえば、億劫相別、而須臾不離、尽日相対、而刹那不対、此理人々有之という大燈国師の語が両者の矛盾的自己同一的関係をいい表していると思う。否定即肯定の絶対矛盾的自己同一の世界は、どこまでも逆限定の世界、逆対応の世界でなければならない。神と人間との対立は、どこまでも逆対応的であるのである。故に我々の宗教心というのは、我々の自己から起るのではなくして、神または仏の呼声である。神または仏の働きである、自己成立の根源からである。」(C340)
これが、人が信仰を持つ、持たないにかかわりなく人間の本質であるという。自分の存在の根底に、今、ここ、自分の根底に人間の限界の底面がある。そこを「場所」という。絶対無、真の自己ともいう。(河井寛次郎は三角形の底辺という)
西田は、臨済宗の僧侶、大燈国師の次の言葉が人間の本質をよく言い表しているとして、しばしば言及する。
「億劫(おっこう)相別れて、而(しかも)須臾(しゅゆ)も、離れず、尽日(じんじつ)
相対して、而も刹那(せつな)も対せず。此の理、人々之(これ)あり」
「須臾」は、わずかな間。「私」は相対者である、「神」「仏」は絶対者である。ただ単なる「相対者」は存在せず、ただ単なる「絶対者」も存在しない。つまり、「私」と離れたところに、絶対者がある、というのは妄想であって、そんなものは存在しない。「私」「人間」は、絶対に「絶対者」ではない。「私」と「絶対者」は、絶対に区別される(差別)。しかし、その二つが、いつでも、どこでもただちに一つ(平等、差別即平等)である。この道理、真理は、すべての人間存在の厳然たる事実である(此の理、人々之あり)。永久に神仏と私は区別されているが、同時に、いつもどこでも、神仏と私とは離れていない。毎日、毎瞬間、一つに顔を合わせていながら、しかも対していない(自己と神仏とが離れて合っているというのでない、一つである)という「真理」は、すべての人に共通にある真理である。自我と対象的なものではなく、実体でもないから、アートマンではない。これを自覚するのが宗教的意識であるという。その事実に生きてハタライていこうとつとめるのが宗教者である。
「我々の自己は、何処までも絶対的一者と即ち神と、逆限定的に、逆対応的関係にあるのである。」(C354)
この限界の底面において、個人の存在は極まるが、その極まるところにおいて、同時に絶対者のハタラキが現れてくる。自己の自我が無にされる極限の場所(限界的底面で、自己のいる絶対現在のここに於いて、絶対現在の瞬間における、ここ)において、逆に「超越者」「絶対者」のハタラキが現れる。個のハタラキが極まるところにおいて、絶対のハタラキが現れるので、「逆限定・逆対応」という。これが西田哲学の焦点である。
生死即涅槃
このままが絶対安心という。「生死即涅槃」はよく見られる。松尾芭蕉は「物我一如」という。人はみな平等という。宗教的問題を西田が「場所的論理」から説明している。すべて、逆対応・逆限定で説明がつく。
「我々の生命において、一瞬も止まることなき時の瞬間は、永遠の現在と逆限定的に、逆対応的関係に於てあるのである。故に生死即涅槃である。自己自身を超越することは、何処までも自己に返ることである、真の自己となることである。諸心皆為非心、是名為心[諸(もろもろ)の心は皆心にあらずとなす、これを名づけて心となす]という所以(ゆえん)である。心即是仏、仏即是心の義も、ここに把握せなければならない。対象論理的に我々の心と仏とが同一というのではない。般若真空の論理は、西洋論理的には把握せられないのである。仏教学者も、従来この即非の論理を明にしていない。我々の自己が自己自身の根底に徹して絶対者に帰するということは、この現実を離れることではない。かえって歴史的現実の底に徹することである。絶対現在の自己限定として、何処までも歴史的個となることである。」(C354)
自分と思っている対象的に思考された自分(自我、利己的自己)が真の自己ではない、そういう対象的自我を否定した時真の自己のハタラキが現れる。「心が仏」という場合も、自我の心が仏というのではない。「心が仏」という時、自我も出てくる元の根源の場所、無心、無私の心である。そこは、静かな山中の道場や、荘厳な教会の中ではなく、いつでも自分の足元である。「この現実を離れることではない。かえって歴史的現実の底に徹することである。」自分が今、いる場に徹していくことである。自分の根底に、いつも絶対無の場所があるから、生死即涅槃、心即是仏ともいう。
この真理は、宗教者だけのものではなく、宗教に関係なく、無宗教の人でも、すべての人に共通の真理である。
人は相対、神仏は絶対であるが、存在するのは、ただの人でもなく単なる神仏でもなく、「人=神仏」である。絶対の神仏は、人をとおしてしか現れない。
絶対の愛
「我々の自己はどこまでも唯一的に、意志的自己として、逆対応的に、外にどこまでも我々の自己を越えて我々の自己に対する絶対者に対するとともに、内にもまた逆対応的に、どこまでも我々の自己を越えて我々の自己に対する絶対者に対するのである。前者の方向においては、絶対者の自己表現として、我々の自己は絶対的命令に接する、我々はどこまでも自己自身を否定してこれに従うのほかはない。これに従うものは生き、これに背くものは永遠の火に投ぜられる。後者の方向においては、これに反し、絶対者はどこまでも我々の自己を包むものであるのである、どこまでも背く我々の自己を、逃げる我々の自己を、どこまでも追い、これを包むものであるのである、即ち無限の慈悲であるのである。私はここでも、我々の自己が唯一的個的に、意志的自己として絶対者に対するという。何となれば愛というものも、どこまでも相対する人格と人格との矛盾的自己同一的関係でなければならない。どこまでも自己自身に反するものを包むのが絶対の愛である。どこまでも自己矛盾的存在たる意志的自己は、自己成立の根底において、矛盾的自己同一的に自己を成立せしめるものに撞着(どうちゃく)するのである。そこに我々の自己は自己自身を包む絶対の愛に接せなければならない。
単なる意志的対立から人格的自己が成立するのではない。この故に如何なる宗教においても、何らかの意味において神は愛であるのである。」(C366)
我々の自己の根底には自己自身を包む絶対の愛がある。常に接している。これが自覚され、真にその事実に生きるならば、なんの宗教や心理療法が必要であろうか。どこの偉い人に頼る(精神的に)必要があろうか。自己の根底にいつでも、ありありと絶対者がハタライている、その自覚がまぎれもなくある人にとって、宗教、心理療法、教祖、カウンセラーなど何の頼りとすべきもの、おそれるものがあろうか。人間は本来、そのような何ものにも頼らなく、自己がそのまま絶対者と一つであるというそのような自己(自己根底の場所)のみに由(よ)る「自由」な存在である。人はみな「自由」なのである。宗教に頼るな、教祖に頼るな、カウンセラーに頼るな、それらの命令などに縛られるな。そういうものに縛られず、自分(絶対者と一つという)の自由意志で、自分の行為に責任を持って行動していく。
いつも自己は絶対者に否定され、絶対者に包まれている。いつも絶対者からの働きがあり、これに従う(絶対者から与えられた、あるがままのものを受容する)ものは生き、背くもの(自我を働かせる)は死ぬ。すべての人がいつも絶対者(自己の根底に自己とともにある)の愛に包まれている。私たちは、いつも私たちの死を迫り、かつ慈悲を与える神(仏、絶対者)に接している。絶対者(真に)の働きは、それをそのまま受容するのほかはない。自我によって、嫌っては、かえって絶対者からの愛を拒否し、生命を失う。しかし、自我がいかに強くとも、我々の自我を払い、我々がつかのまの安息に憩うよう、我々をいつも愛で包んでいる。それは、通常に言われる自己の外の絶対者ではなく、いつも自己と一つである。それに気がつくのが宗教的意識である。西田幾多郎はいう。
絶対矛盾的自己同一
西田の論文には、至るところに、「絶対矛盾的自己同一」の語句が見られる。
「作るものと作られたものとが矛盾的に自己同一なる所、現在が現在自身を限定する所が、現実と考えられるのである。」(C14)
自己(人間)と絶対者(宗教者は、これを神、仏という)という二つ、本来は絶対に矛盾するものが、実は、一つであるという事実が、「絶対矛盾的自己同一」と言われる。この時、注意すべきは、対象的に「自己」を眺めて、また対象的に「神」を眺めて、その二つが一つというのではない。いつも生きてハタライている、この自己の根底において、この相対的と思われている自己に神と思われるハタラキがハタライているという事実を「絶対矛盾的自己同一」と言う。「絶対」だけのものは存在せず、「相対」だけのものも存在しない。矛盾する(と思われる)ものが一つというものしか存在しない。簡単に言うと、「すべての人が仏」「神、我らと共にいます」
自己はいつも、実存の底面において、世界を与えられている(作られたもの)、それをどう受け止めてはたらいていくかは、自己にまかされている。私のはたらきで世界が変わる。私が世界を作る。自己の実存の場所で、作られたものから、作るものへと止まることなく、永遠に働く。(うつ病である私が世界を変えることができる)
自己を越えたもの
断片的ではあるが、西田の自己、絶対者、宗教についての重要な言葉をいくつか引用しておく。一言でも、琴線にふれるものがあれば、ありがたい。たった一度だけ、世界を観る機会を与えられた大切な「いのち」自己。くだらぬ妄想思想や宗教者にあやつられないように、自己を知れ、自己に誠実であれ。それが西田の願いであると思う。
◆「我々の自己の自覚の奥底には、どこまでも自己を越えたものがあるのである。我々の自己が自覚的に深くなればなるほどしかいうことができる。内在即超越、超越即内在的に、即ち矛盾的自己同一的に、我々の真の自己はそこから働くのである。そこには、直観というものがなければならない。」(C347)
普通、人が「自分」と言っているものは、実体のない自我であって真の自己ではない。自己の奥底にふつう気がつかない自己がある。自己を超えた自己のハタラキがある。それを自覚するのは直観である。他者によって思想的に作られたものを思索で理解するのではない、単なる想像でも信じるのでもない。
神は内在的
「絶対はどこまでも自己否定において自己をもつ。どこまでも相対的に、自己自身を翻(ひるが)えす所に、真の絶対があるのである。真の全体的一は真の個物的多において自己自身をもつのである。神はどこまでも自己否定的にこの世界に於いてあるのである。この意味において、神はどこまでも内在的である。故に神は、この世界において、何処にもないとともに何処にもあらざる所なしということができる。」(C329)
神、仏は、自己に内在的である。だから、外に求めては、得られない。たとえば、寺院や教団の施設の中にも、宗教指導者も神、仏ではない。教団の中にも組織を優先させず、真に信者個人の神仏に目覚めるよう指導する至誠の指導者がいるであろう。そういう指導者に導かれながら、教団にいない神(現に今、自己に内在する)への目覚めを果たし、教義、教祖、指導者の呪縛(依存心、畏怖心など)から離れなければならない。
行為的直観
◆「行為を離れた直観という如きは、抽象的に考えられたものか、然らざれば幻想に過ぎない。生命は動揺的である。そこにはいつも無限なる方向があり、無限に幻想的でなけれなならない。生命が矛盾的自己同一的なればなるほどしかいうことができる。我々が個性的に深ければ深いほど、幻想的ということができる。しかし矛盾的自己同一的に形成的なる所、行為的直観的なる所に、我々の個人的生命があるのである、真の自己があるのである。」(C51)
行為的直観について、秋月教授は次のように言う。
◆「「仏性」というと一般の人はすぐに何かそういうものが、どこかに存在するかのように考える。しかし、ここに〃見る〃というのは、何か対象的に、観相的にものを見るというのではない。「仏性」というようなものが、何か向こうに客観的に存するのではない。〃見るもの〃が〃それ〃なのである。それは向こうに見ようとすれば、すぐにはずれる。臨済の師匠黄檗は、そこを「当体すなわちそれ、念を動ずれば即ちそむく」と言った。それはどうしても客体的に対象化できないもの、主体的にそれ自体のハタラキそのものとなって見るほかにないものである。まさに「仏性は作用にあり」である。鈴木大拙は、ここをよく「見が性で、性が見なのだ」と言われた。西田哲学に「行為的直観」の語がある。」(秋月教授著『絶対無と場所』P57)
「絶対者」(仏、神でも)は、対象的な存在ではなく、「作用」「ハタラキ」そのものである。それを自覚するには、ハタラキそのものになって直観するしかない。その自覚は、体験である、事実である。想像ではない。信じるのでもない。
事実である
「我々の自己の奥底には、どこまでも意識的自己を越えたものがあるのである。これは我々の自己の自覚的事実である。自己自身の自覚の事実について、深く反省する人は、何びともここに気づかなければならない。鈴木大拙はこれを霊性という(日本的霊性)しかして精神の意志の力は、霊性に裏付けられることによって、自己を超越するといっている。霊性的事実というのは、宗教的ではあるが、神秘的なるものではない。元来、人が宗教を宗教的と考えること、その事が誤である。科学的知識というものも、この立場によって基礎づけられるのである。科学的知識は、単に抽象的意識的自己の立場から成立するのではない。私がかつて論じた如く、身体的自己の自覚の立場から成立するのである(「物理の世界」参照)。」(C348)
物となって行う
「真理は、我々が物となって考え、物となって見る所にあるのである。而して慈悲とは、我々の自己が、徹底的にかかる立場に立つことである。絶対者の自己否定的肯定として働くことである。真に人を知るは、真に無念無想の立場からでなければならない。」(C376)
私なく、ものだけ、はたらき、だけである。無私の行為が、我利に束縛されないハタラキ。そのハタラキは、自分ではなくて、絶対者のハタラキ。人が喜ぶ行為をした場合、自分の功績ではなく、その功績を絶対者に譲る。無我とは、物となってハタラクこと。自己を絶対否定した時、絶対肯定にひるがえる。(心の病気からの脱出も、自分のもがき、自分のまぎらし、自分の評価判断を絶対否定する方向である。これが、自己洞察瞑想療法(SIMT)の医療レベルである。)
無限球
無我は、仏教の根本理念の一つであるという。論理的理解によらず、自我なくしてものとなり、直観して無我を悟った時、不思議に、世界が自己となる。いつでも、どこにいても、自分が中心という感覚が生じる。それで無限球という。それを西田は次のようにいう。
「我々の自己は絶対的一者の自己否定として、どこまでも逆対応的にこれに接するのであり、個なれば個なるほど、絶対的一者に対する、即ち神に対するということができる。我々の自己が神に対するというのは、個の極限としてである。どこまでも矛盾的自己同一的に、歴史的世界の個物的自己限定の極限において、全体的一の極限に対するのである。故に我々の自己の一々が、永遠の過去から永遠も未来にわたる人間の代表者として、神に対するのである。絶対現在の瞬間的限定として絶対現在そのものに対するのである。ここに我々の自己は、周辺なくして、至る所が中心である無限球の無数の中心とも考えることができる。」(C360)
自己が球の中心、世界の主人公となる。しかし、ここで注意しておきたいのは、自分のみではない。自分のみ絶対者だというのが、低級な宗教者である。西田のいう真実は、すべての人が無限球の中心である。
「而して絶対現在の世界は、周辺なき無限大の球として、至る所が中心となるのである。かかる世界は、必然の自由、自由の必然の世界である。我々の自己に対する当為ということは、かかる世界においてのみいい得るのである。かかる世界は、主観的世界ではない。私が「物理の世界」において論じた如く、物理的世界と考えられるものが、既に絶対矛盾的自己同一的たる歴史的世界の一面として考えられねばならないのである。」(C307)
「私はしばしば絶対矛盾的自己同一的場所、絶対現在の世界、歴史的空間を無限球に喩えた。周辺なくして到る所が中心となる、無基底的に、矛盾的自己同一的なる球が、自己の中に自己を映す、その無限に中心的なる方向が超越的なる神である。そこに人は歴史的世界の絶対的主体を見る。」(C336)
私は、どこへ行っても、私が主人公である。私の行くところに自己根底の絶対者が創造した世界を提示される。私はそれを謙虚に受け止め、そこでできることを返す。私が行くところが世界の中心である。私の行くところがすべて中心になるから、無限に中心があり、無限に移動して行く。
禅について
西田幾多郎は禅が誤解されているという。
「私は、唯、禅に対する世人の誤解について一言して置きたいと思う。禅というのは、多くの人の考える如き神秘主義ではない。見性ということは、深く我々の自己の根底に徹することである。我々の自己は絶対者の自己否定として成立するのである。絶対的一者の自己否定的に、即ち個物的多として、我々の自己が成立するのである。故に我々の自己は根底的には自己矛盾的存在である。自己が自己自身を知る自覚という事が、自己矛盾である。故に我々の自己は、どこまでも自己の底に自己を越えたものにおいて自己をもつ、自己否定において自己自身を肯定するのである。かかる矛盾的自己同一の根底に徹することを、見性というのである。そこには、深く背理の理というものが把握せられなければならない。禅宗にて公案というものは、これを会得せしむる手段にほかならない。」(C377)
禅は神秘主義だというと、それは誤解であるという。欲求的自己(思考されたもの)が真の自己ではなく、対象的自己を無にしたところに、絶対者(すべての人の根底)と一つとしての真の自己が働く、そのことに徹する。その人間の事実は直観的に自覚する前から事実なのであるが、気がついていない。そのような内奥の自己の探求は、死を自覚した人も真剣に探求したいという人がいるであろう。死の渕をさまよったうつ病の人、がん患者。
参考文献
A『場所・私と汝』 西田幾多郎哲学論集1 岩波文庫
B『論理と生命』 西田幾多郎哲学論集2 岩波文庫
C『自覚について』 西田幾多郎哲学論集3 岩波文庫
D『善の研究』 西田幾多郎 岩波文庫
E『西田幾多郎随筆集』 岩波文庫
F『西田幾多郎』 上田閑照 岩波書店
G『西田幾多郎の生涯』 上杉知行 燈影舎
X『哲学入門』 田中美知太郎 講談社学術文庫
Y『絶対無と場所』 秋月龍 民 青土社
Z『破鞋−雪門玄松の生涯』 水上勉 岩波書店