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欧米の心理療法の潮流=ACT(2)

アクセプタンス・コミットメント・セラピーの哲学

 アクセプタンス・コミットメント・セラピー(ACT)は、行動分析学という哲学に基づくといいます。 そして、「文脈としての自己」という場所を提案しています。  この「文脈としての自己」はどのような哲学から出てきているのでしょうか。  ACTでは、「生命の流れとしての自己」と「文脈としての自己」をいうが、「「関係フレーム理論」には、この「生命の流れ」に相当する自己は規定されていません」(同上、p60)というので、別の西洋哲学を加算しているようです。
 熊野氏によれば、文脈としての自己は、行動分析学とは別の西洋哲学から出てきているようです。中身のない自己であれば、カントの意識一般に似ています。 次が西田幾多郎の説明です。西田哲学では、深い叡智的自己は、自己自身の内容を持つが、自己の内容を持たない意識一般は浅い。西田(そして、鈴木大拙ほか多数の仏教研究者、西田哲学の研究者が)は、東洋ではもっと深い自己があると昔から(インド大乗仏教の時代から)言ってきたというのです。  西田は中身のない意識一般を形式的な叡智的自己とみて、もっと深い叡智的自己があり、自由意志を持つ叡智的自己は、自己 の中に自己の内容を持つというのです。
 宮沢賢治も「直観」といいましたが、大乗仏教に造詣の深い人でしたから、この叡智的自己、あるいは、人格的自己を自覚していたはずです。東洋的な自己は、自己自身の内容を持つという哲学があります。その指針を持って、マインドフルネスの実践を行うのです。そうでないと、解決できない問題、苦悩も日本には多いのです。V・E・フランクルの内在と同じく深いものが叡智的自己と思われます。ロゴセラピーと叡智的自己のマインドフルネスとの違いは、前者が必ずしも、マインドフルネス、瞑想を用いない点ではないでしょうか。そして、ロゴセラピーでは扱わないという超越の扉の中までも入れる点でしょう。自己存在そのもので、そういう領域も必要になっている現代日本ではないでしょうか。

 ACTは、西洋哲学の自己を持ち、他のマインドフルネス(MBSR,MBCT,SIMTなど)は、東洋哲学の自己をいうようです。かといっても、ACTは「有用性」がないというのでは決してありません。大きな貢献をしています。ACTも種々の問題で活用されています。マインドフルネスには、さまざまなものがあり、 それぞれ社会で貢献できる領域が違うでしょう。「みんな違ってみんないい」のです。 適用してみようという時に、その問題、その病気にもっとも近いものを選択すればいいのでしょう。
 仏教も種々にわかれました。初期仏教は大乗仏教から批判されました。時代により、在家により、国により、扱えない社会問題が出てき たので、さらに深い哲学を持つ大乗仏教が現れました。 哲学は重要です。それは枠をはめる理論となるから、深く広くないと、人の行動を規制してしまいます。カルトの思想、哲学を持つ集団が、重大な反社会的な事件(集団自殺、女性の人権侵害、殺人事件など)を起すことがあることは広く知られています。大学にもカルト集団による誘いがあるといいます。だから、宗教が警戒もされるということもあるのです。
 マインドフルネスは、宗教団体でも行われます。フランクルや鈴木大拙などがいうように、精神衛生上(たとえば自己存在そのもの、がん患者や終末期の自己の死の不安)などに宗教も重要な役割を果すでしょう。
 絶対者が出てくる宗教と、そうでない論理的に説明できる範囲(意志的自己、叡智的自己=おそらくロゴセラピーの内在と同じ領域)のマインドフルネスとがあります。日本的な哲学に基づくマインドフルネスも可能性が無限にありそうですから、宗教レベル(人格的自己、超越)とそれ以前レベル(意志的自己、叡智的自己)の区別を知りつつ、有用な可能性のある日本的なマインドフルネスの研究開発にも多くの人が参加したほうがいいと思うのです。