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欧米の心理療法の潮流=弁証法的行動療法(1)

深い内奥の自己

 石川県西田幾多郎記念哲学館で講演をさせていただきました。西田幾多郎の 短歌は私に長く深い感銘を与えてきました。 彼は、8人の子どもがいたのに5人も先立たれています。悲しい人生でした。 その悲しみの奥底に悲しみの届かない心があり、そこから悲しみも出てくるの ですね。  そうだとすると、うつ病や不安障害、虐待された人たち、いじめられて傷つ いた子どもたちが、苦しむ奥底にも苦しみのとどかない心があるのでしょう。   うつ病の人は、自分は価値がないといいます。しかし、それは考えられた内容 です。そういう人の自己も価値を越えた生命の流れであり、無価値ではありま せん。その立場に立つ時、人はみな平等です。比較できない絶対平等です。

内的生命の流れ

 西田によれば、最も内奥の真の自己には、真もなければ、偽もなく、善もな ければ、悪もない、ただ「内的生命の流れ」があるという。

 「絶対無の自覚が自己自身を限定するに当って、そのノエマ面として、すべ て有るものを限定する最後の一般者の場所というものが成立すると共に、その ノエシス的方向に、無限なる生命の流れというものがみられるのである 。 何ゆえに絶対無が自己自身を限定するかと問われるかも知れない。しかし絶対 無というは単に何物もないということではない、ノエシス的限定の極致をいう のである、心の本体を意味するのである。それは絶対に無なると共に絶対に有 なるものである、我々の知識の限界を越えたものである。かかる問そのものも そこから起るのである。」(「一般者の自覚的体系・総説」旧全集 5巻-451頁)

 哲学の立場は絶対無の立場、内的生命の立場である。ただ生命の流れのみら れる場所であり、自己らしきものは微塵もない。自己がなく生命の流れがある 。我々の行為、芸術的行為も、道徳的行為も、自分という意識も内的生命から起る。かくして、 西田哲学の立場は、人間の価値観、人間の評価、善悪、美醜の生まれる前の生 命の流れそのものの立場である。 内的生命の立場というのは見るものなくして見る自己の立場 を意味する。立場のない立場である。

 「哲学の立場というのは、こういう意味に於いて我々の思惟的生命が自己自 身を自省する立場である、絶対無の知的自覚の立場ということができる。絶対 無の自覚の立場からいえば、行為的限定というのはそのノエマ的限定というべ きものであり、そのノエシス的限定というのは内的生命という如きものである 。行為的限定によって自己自身の内容が見られるかぎり、それは叡智的自己の 自己限定と考えられるものであって、絶対無の自覚の立場から見れば、我々の 芸術的生命、道徳的生命の底には、深い内的生命の流れを見ることができる 。美の内容、善の内容も深い内的生命の暗黒の中から排出せる生命の閃き に過ぎない。」(「一般者の自己限定」旧全集 5巻-416頁)

 この西田幾多郎の言葉は、西田幾多郎だけの独断ではないことが欧米のマイ ンドフルネス心理療法者によっても追認されてきたようです。

リネハンの弁証法的行動療法の「賢明な心」

 リネハンの弁証法的行動療法では、3つの心、すなわち、「合理的な心」「 情動の心」「賢明な心」が提示され、「賢明な心」を自覚することが指導され ている。エクササイズによって体験的に自覚する心である。知的分析に依らな いで直観的な理解という特徴を持つ。「賢明な心」は、あらゆる理解の方法( 観察、論理的分析、運動的および感覚的経験、行動的学習、直観)の完全なる 協調の上に成り立っているという。

 リネハンの弁証法的行動療法では、この直観的といわれる「賢明な心」を患 者が体験的に、直観的に、自覚できるようにエクササイズを指導する。呼吸法 が用いられている。

 「呼気の終点に注意を集中させるようにしている」というのは、禅の指導で いう「丹田」に似ている。「賢明な心」、内奥の自己に入り込む体験は、簡単 にはいかないようで、蓋を開けるという比喩で、何度もトレーニングを繰り返 していくことが期待されている。

 「「賢明な心」を取り巻く内的な平穏を経験できるようなエクササイズに患 者を導くことが有効である。基本的に、私は患者に対して、自分の呼吸を辿ら せ(吐く息、吸う息に注意を向けさせる)、しばらくしてから、患者に自分の 身体の中心、つまり呼気の終点に注意を集中させるようにしている。その中心 点が、まさに「賢明な心」なのである。ほとんどすべての患者が、この点を感 じることができる。
 この後、「賢明な心」に入り込むことを求められたときには、患者はこのス タンスをとり、内的平穏の中心から反応するよう教示される。これは井戸の中 深く降りていくことにたとえられよう。井戸の底の水がーそれは実際、地下 の大海なのだがー「賢明な心」なのである。だが下に降りる途中で、中蓋 がしばしば行く手を阻む。その中蓋は非常に巧妙に作られているため、井戸の 底には本当に水がないと信じてしまう場合もある。つまり、中蓋が井戸の底の ように見えてしまうのだ。そのため、患者がそれぞれの蓋をいかにして開ける か考え出すのを助けることがセラピストの課題となる。おそらく蓋には錠前が かかっており、患者には鍵が必要であろう。あるいは、釘で打ち付けられてい るなら釘抜きが必要だろうし、接着剤で閉じられているならノミが必要である 。しかし、忍耐と努力をもってすれば、井戸の底にある知恵の大海に到達す ることができるのだ。」(境界性パーソナリティ障害の弁証法的行動療法」 マーシャM・リネハン、誠信書房、290頁)
 「井戸の底にある知恵の大海」というメタファー(比喩)にあるように、患 者が自覚しなかったが前からあったものを体験的に自覚させる。智慧を生みだ す心のようなものを感じることが問題の改善に結びつく。
 リネハンの弁証法的行動療法における  「賢明な心」は、西田幾多郎のいう「内的生命の流れ」の立場にたつ心と同じ ではないだろうか。 欧米のマインドフルネス心理療法もここまで、人のこころを深く探求してきて いる。
 うつ病や不安障害などの人たち、自己評価が低くなってしまった人たちも 自己を深く探求すれば、価値がないと思っていたのは、考えられた内容にすぎ ないのであって、本当の自分ではなかったと気づいて、救われるのだろう。 そうした気づきによって、否定的に考えることがなくなって、脳神経生理学的 な影響が起って、症状が軽くなるのである。

 内奥の自己の探求は、リネハンの弁証法的行動療法、アクセプタンス・コミットメント・セラピーなども、私たちの自己洞察瞑想療法(SIMT)も類似すると思います。
 つらくても治しましょう。弁証法的行動療法やACTの研究も行われています。マインドフルネス心理療法が普及していくでしょう。 政府も対策をとるでしょう。 生き抜いて、認知行動療法やマインドフルネス心理療法が普及するのを待ちましょう。認知を変え、無価値な自分ではないことを知って、生きていきましょう。その立場で生きると、心の問題による症状(精神症状)は軽くなるのです。(神経生理学的フュージョン(連合))