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欧米の心理療法の潮流=ジョン・カバト・ツィンのMBSR(2)

 私にとってマインドフルネスとは、今も実践しているものです。 毎朝、毎晩、静かに行い、行動中も自己洞察しています。だから、 セラピー(医療、心理療法)とか何かの問題に適用するとかいうだけではなくて、 手法だけではなくて、生活全体にしみとおっています。 おそらく、ジョン・カバト・ツィンが いった「全体性」、V・E・フランクルが言った「一人類教」の探求と同じであろうと思います。 すべての人に生まれた時から根底にあって、生涯探求していくもの、一生の仕事なのですから。 鈴木大拙の日本的霊性、西田幾多郎の絶対無の場所でしょう。大乗仏教が強調したように、自己満足のマインドフルネスでなく、他者の援助のマインドフルネスは無限に続くはずです。

ジョン・カバト・ツィンの東洋哲学

 ジョン・カバト・ツィンの「全体性」は次のようなものです。 この全体性の根本実在から、MBSRのマインドフルネスの働きが出てくるのでしょう。 「瞑想と”全体性”の認識との関係」といっています。瞑想とはマインドフルネス実践ですね。 すべての人の根源の全体性から、マインドフルネス瞑想が出てくる。単なる 手法ではないわけです。背景に東洋哲学があります。

フランクルの哲学

 フランクルの 「一人類教」は次のものです。もっとも深い一人類教の場所的存在は各宗教の絶対者をもすべて包むもので東西の宗教哲学を綜合した共通のものです。西田哲学の絶対無の場所(真の自己)と同じような位置づけです。西田幾多郎も同じことをいうからです。

さまざまなマインドフルネスにそれぞれの哲学が

 マインドフルネスは、みなそれぞれの「自己存在」の哲学をもっているようです。 アクセプタンス・コミットメント・セラピー(ACT)は、「文脈としての自己」を言いますが、行動分析学という哲学だといいます。西洋哲学で、宗教以前のところで、とても広く適用しようとしているようです。得意領域がありそうです。
 ジョン・カバト・ツィンのMBSRとセーガルらのマインドフルネス認知療法は、東洋哲学、おそらく、襌の哲学(道元か)のようです。それは、西田幾多郎によれば、東西の宗教の根底にある共通のもののようです。
 マインドフルネスには、宗教レベルと宗教以前のものがありそうです。 自己洞察瞑想療法(SIMT)は、西田哲学を基礎にして、宗教以前のマインドフルネスです。これから、 さらに深い叡智的マインドフルネス(まだ宗教以前=フランクルのロゴセラピーと同じレベル)があり、さらに人格的マインドフルネスがありそうです。 日本的マインドフルネスは、発展段階にあり、これからなすべきことが無限にあります。

叡智的自己のマインドフルネス

 叡智的自己のマインドフルネスは、フランクルのロゴセラピーに、マインドフルネスを加算したものになるような気がします。職業領域で成功していた人が、何かの出来事でうつ病になり、自殺することがあります。高齢者にはとても多いです。人生の価値の確認、選択、移動をうまくできないとそういうことが起きるのだと思います。ロゴセラピーとマインドフルネスの合体が、大切な一つか複数の価値を崩壊してしまった人に再起してもらうための援助法になるような気がします。瞑想をしながら失われた価値による苦悩を観察し受容しつつ、瞑想の中で別の生きる価値の探索をするのでしょう。
 もちろん、これは、人生価値を失った人の「治療法」だけものではありません。上にいったように 成功しつつある人に、突然おそいかかる価値崩壊的出来事があります。魂の備えがないと、あっといいうまに、飲み込まれてしまいます。「予防」が大切なのです。叡智的自己のマインドフルネスは、人生の価値を失うような魂の病の「予防」法みたいなものかもしれません。

医師による魂への配慮

 フランクルは、医師が宗教的な問題に直面する患者とあうことが多いといいます。 生涯、負っていかねばならない身体障害、たとえば外科医は足の切断、眼科医は失明、内科医は、脳梗塞による半身不随などを持つことになる患者さんにあいます。がんであると告知して、暗黙に死の準備をすべきと宣言をする医師もいます。深刻な苦悩を持つ患者さんにあいます。医師ほど、宗教への扉の前に立つ人々にあう職業はないでしょう。さまざまな病苦によって苦痛に満ちた人生を宗教によって癒され、闘病する精神を持つことができる人もいるのです。
 医師は、精神療法、哲学的宗教的な勉強を深くせずして、精神療法、宗教への扉を塞ぐことをしてはならないのです。 フランクルがそう言っていると思います。
 宗教の力のすばらしさを認めるからといっても、フランクルも私も、宗教者ではありません。そういう魂の癒しの援助ができるのは宗教者だとフランクルが言っています。医師や心理士は宗教への扉の前に立ち、迷っている人によくあうのです。