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マインドフルネスとは

ジョン・カバト・ツィン氏のマインドフルネスの心得

 「マインドフルネス」とは、気づく、無評価で観察する、という定義が多いようです。初期仏教で「 マインドフルネス」が始まったのだからというわけで、初期仏教における定義でいう人もいます。 現代人に適用するのですから、必ずしも、昔の定義にこだわる必要もありません(こだわると現代人の深い問題の支援に不十分になります)。現代社会の問題解決に有効なも のに変えていくべきです。
 ジョン・カバット・ジン氏のマインドフルネス7つの心得もあります。 マインドフルネス&アクセプタンス(M&A)を世界的にしたジョン・カバト・ツィン氏の マインドフルネス・ストレス低減法(MBSR)にあ る7つの態度です。  MBSRは、上記の7つの態度で、静座瞑想、ヨーガ瞑想、ボディスキ ャンを忍耐強く続けるものです。この心得、態度は、道元襌の哲学、全体性の哲学から出てきたも のでしょう。カバット・ジン氏は、道元禅師を尊敬しているといいます。
 しかし、詳細に検討してみると、世界から情報を受け取る局面の心得になっています。MBSR が、そもそも痛みの緩和、ストレス緩和プログラムだからでしょう。自己存在そのものの苦悩を持つわけでもなく、人生価値は明確にもっているが、 痛み、ストレスの克服をしたい人向けに開発されたものでしょう。
 MBSRだけでは、うつ病の治療法にならないのは、ここに秘密がありそうです。初期仏教のヴィパッサナー瞑想(*)のマインドフルネスが正当だ、MBSRだけがマ インドフルネスであると執着すると、偏見になります。 それらを包含したもっと深いものがあります。 西田哲学でいう絶対無の立場になりません。 偏見になると、クライエントを傷つけます。適応症ではないクライエントに無駄な実践をさせるかも しれません。だから、マインドフルネスは、智慧、哲学が重要です。襌も「定慧等学」を主張します 。どこをめざすかが「智慧」、哲学です。その智慧の実現をめざす実践としてマインドフルネスこそ 「科学的」でありたいはずです。どこをめざす手法であるのか、わかって用いるということです。

行動局面のマインドフルネス

 人は、情報を得る局面だけで生きるのではありません。西田幾多郎は、人は社会(世界)の中で 生まれ社会の中で生きていく存在であるといいます。創造的世界の創造的要素といいます。 見て働く、働いて見るのだと言います。働く局面があります。この局面では、情報受動局面(見る 局面)とは違う心得が必要になります。行動局面(働く局面)では、自由がありますが、エゴイズムを発動する自由によって、結果的に自 己や他者の苦しみになることや失敗を犯すおそれがあります。「働く」局面はとても重要です。  「働く」局面まで「マインドフルネス」の定義に含まれているのが、次の弁証法的行動療法のマイ ンドフルネスです。  次ですが、(1)で、MBSR7つを包括していると思えます。(1)を詳しくすると、MBSRの7つにな るといえます。  この(2)(3)が、MBSRの7つでは積極的に言われない心得です。これは主に行動局面です。 (2)は、情報を見る局面と行動局面の両方にわたるのかもしれません。 (3)は、あきらかに行動局面です。このマインドフルネスの定義では、ここまで強調しています。 うつ病や不安症/不安障害などは、特に重要です。 行動局面は別な心得が必要です。明確に個人の評価が重視される局面です。 家族のために、社会のために価値がある、「すべき」「良い」と評価する行動を選択することが重 要です。価値評価しないかぎり、動くことができません。
 自己洞察瞑想療法(SIMT)では「価値の確認」「価値実現への行動」、総合して「意志作用」とい うことで、 行動局面を重視しています。ここまで、マインドフルネスです。広義のマインドフルネスです。 人は見て働く存在です。 私は、見る局面を狭義のマインドフルネス、働く局面を広義のマインドフルネスと呼びます。 現代の家庭、職場では、広義のマインドフルネスも重要です。現代人は、情報の受動だけで生き るのではないからです。社会に出て働く、世界を創造していく存在だからです。人はみな創造的 世界の創造的要素です。苦痛を無評価で観察できるだけでは不足です。その次があります。苦 痛があったら狭義のマインドフルネスで真相を観察し、そこに留まらずに、 自分の評価する価値を見つけて、その価値実現に向けての行動をしていく「意志作用」が重要な のです。今ここの瞬間瞬間に「価値実現行動への評価」が必要です。狭義のマインドフルネスで 情報を得て、広義のマインドフルネスで自分の価値実現の行動をしていくスキルがマインドフルネ スの全体と言えます。

さらに叡智的自己、人格的自己のマインドフルネス

 実際には、人の行動は、対象的な意志作用にとどまりません。さらに、自己意識なく行為する叡 智的直観(行為的直観)、さらに自己なくして世界となって働く自覚的直観で生きる人格的自己 があると西田幾多郎はいいます。これが、大乗仏教に萌芽がある東洋哲学であり、論理的に言語 化、論理的に説明しようとしたのが西田哲学です。しかし、西田哲学はそれだけでは、社会的実 践のマインドフルネスではありません。 大乗仏教も襌も、静かなところで坐禅したり「悟り」をめざすことが強調されて、専門家が行うものと なり、対人関係の場面で世界の歴史を動かし働く人々の現実の行動場面での応用が充分にされ ませんでした。 身分制があり、税金(年貢)をおさめるための労働が重視された一般人には宗教の自由がなく、 一般人の自己洞察探求を時代が、環境がゆるしませんでした。
 しかし、現代では宗教の自由があり、救済されるべき人は寺院の外の社会にいます。社会的創 造的行為を要求される社会にいます。歴史に制約されたマインドフルネスでは、現代社会での深 刻な問題を解決するためには充分なマインドフルネスにはなりません。襌による指導法(只管打 坐や公案による)は、対人関係が渦巻く中で生きる人にはきわめて難しい方法です。たとえば、 自己評価が低く傷ついた人やがん患者が実践するにはわかりにくい。そういうマインドフルネスは 、まだ欧米にはありません。また、死の問題は宗教的です。世界と自己とを別とすることが多い西 洋的二元観とは違う哲学を持つ日本人です。日本で現代人ができる実践を開発できないのでし ょうか。

 現代社会では、瞑想の場所、寺院の外では、さまざまな立場の人が集団が、それぞれの自己の 価値を実現しようとして、エゴイズムを発動します。自己中心的です。西田哲学はそれが人間に本 質的だといいます。そういうことが自己を苦しめ、他者を苦しめます。何かの価値、理想を求める 集団の場合、外に困っている人がいても、無視、傍観して自分たちの価値、理想をめざす実践を 重視するかもしれません。
 西田哲学が、さまざまな段階の自己、エゴイズムを説明しています。 日本的一元観の哲学、西田哲学を実践化する手法を開発することができないのでしょうか。 意志的自己レベルの、叡智的自己レベル、人格的自己レベルがあります。そのそれぞれに苦悩 やエゴイズムがあります。その解決のマインドフルネスが考えられます。これを開発できるのは、多 分、襌の実践や西田哲学の本家である「日本人」だろうと思います。簡単ではありませんが、深刻 な問題に応え得るマインドフルネスになるであろうと思います。 道場の外で歴史的に社会を作っていく働く人の苦悩の解決のためのマインドフルネスは、過去に はなく、開発は容易ではありません。多くの人が参加してほしいと思います。

試験的運用へ

 意志的自己レベルのマインドフルネス心理療法(SIMT)の開発は、意志作用の哲学を実践化するにはどうあるべきかを構想して、実践内容を提案しました。 そして、クライエントに試験的に実践していただきました。修正、適用、検討、修正を重ねて、15年ほどかけて、一応定型化して、本になりました。(『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社)
 人の苦悩、問題は深いものがあります。叡智的自己、人格的自己のマインドフルネスは、 人生価値、自己の悪を責める苦悩、自己の死という自己存在にからむので、「対象的な問題」のマインドフルネスでは切り込めなく、襌の悟り(絶対的一元観の自己)に関係があります。その方向のマインドフルネスも、すでに構想があります。その入門が本になりました。(『 マインドフルネス入門』清流出版)
 これを叡智的自己レベルのマインドフルネス心理療法の入門とし、さらにその先の人格的自己まで求める人(低い自己評価、他者の人格否定、がん患者の死などにかかわる)のために、まだ本に書いていない人格的自己までのマインドフルネスをめざす実践会を行います。参加してくださる人とともに、実用化への試験を行っていきます。具体的な方法の提案、試験的実践、検討、方法の修正を重ねていきます。人格的自己の哲学の記述は簡単です(西田哲学ですでにされているから)が、それに至る実践的マインドフルネスの方法の開発はまだ存在しないのですから数年かかるでしょう。
 すでに開発されて本などになったのを紹介するのは、簡単でしょうが、まだ言葉(本)になっていない新しいものを創作するのは時間がかかり、大変なのです。どうも、マインドフルネスについては、日本独自のものが少なく、海外のものの輸入がめだちます。それでは、深さに限界があります。「自分とは何か」、生きている自分、死にゆく自分とは何か、こういう苦悩はとても深く、 今発表されているマインドフルネスにはありません。自己存在にかかわる深い問題であるために、 昔から東洋的一元観に生きた日本人のための深いマインドフルネスは、日本人が開発しなければなりません。

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