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欧米の心理療法の潮流=瞑想の重視(1)
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(工事中)
瞑想を応用した心理療法=欧米の新しい潮流
禅や瞑想、呼吸法の心理療法への貢献について、安藤治氏(花園大学教授、精神科医)によって報告されている。
安藤氏の著書の中から次の内容を、少しずつ、紹介する。
ファイルが大きくなりましたので、2つに分けています。
(A)瞑想にはすぐれた意義がある
安藤氏は、ガンジーの言葉を引用して、坐禅や瞑想のすぐれた意義を語る。
「ガンジーは言う。
私は万物の一元性を信じる。人間は究極的に一つであること、そして実際またすべての生命は一つであることを信じている。それゆえ、もし誰か一人が豊かな精神性を得るなら、世界全体もまたこれを手に入れ、また誰かがそれに失敗するなら、世界もそれに応じて貧しくなるということを信じている。
これらの言葉に目を向ければ、ガンジーの「自己実現」や「非暴力」、あらゆる生命の平等主義」などにも、自然な理解が及ぶだろう。これは、まったく仏教、つまりブッダの言説にも一致するものである。ブッダが教えていた「あたかも、母が己が独り子(おのがひとりご)を命を賭けても護自分るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし」という言葉は、この「慈しみ」の心にこそ、すべての生命を一つに包み込む「自己」の認識があることを説いた、仏教の偉大な教えである。仏教において座禅や瞑想の実践が重視されるのは、その実践が、この大切な「慈しみ」の心を開き出す力をもっているからなのだ。」(1)
だが、仏教学者から見れば、安藤氏のこの言葉には、すぐには同意できないだろう。安藤氏は、仏教、釈尊の教え、釈尊の座禅や瞑想について語っているに違いない。現代の坐禅は、その大切なものを強調しないが、釈尊の仏教や釈尊の坐禅には、慈しみや、苦のカウンセリングの智慧が含まれていた。それを再発掘すべきである。
坐禅は、どのような坐禅でもすぐれているわけではないことになる。「目的のない坐禅」とか、
苦を感じない人々が行う悟りを目指し、悟りを得たら、強い人だけを教える坐禅は、苦のカウンセリングの目標はないことになる。だから、初期仏教から大乗仏教、道元禅師まで、智慧(実践の方針・目標)が重視された。智とともに修せられる禅定、智慧波羅蜜、修証一等であるという。慈しみ、人々の苦の共感、苦のカウンセリングの智慧とともに修習される禅である。これなら、現代人の心理療法にも応用できるのである。欧米の精神科医、心理療法家は、正しく、そこを見てきたのである。
なお、悟れば自然に慈悲が働き出す、という意味の言説を秋月龍a氏などの著書で見たと思うが、これは、条件つきであろう。悟りを得たら、必ず、慈悲行(心の病気のようなレベルの苦悩する人の救済)に働くのではない。さらに、苦の共感やカウンセリングの手法を学ぶこと、カウンセリングが好きになることという条件つきのようである。悟りだけでは、高度の智慧は会得されても、慈悲のための智慧は、また、別であろう。悟りの印可を持つ人を見ればわかる。心理療法を実践する人はほとんどいない。悟りだけでは、苦のカウンセリングはできない。仏教の文字の研究だけをして坐禅しない学者からも、禅の心理療法の側面の智慧を聞こうとしても得られない。だから、悟道の人々や仏教学者に、安藤氏の熱く語る「仏教の心理療法の智慧」を聞こうとしても、失敗するであろう。
心理療法の好きな人々は、心理学を専攻する。その人たちは坐禅が好きではない人が多い。心理療法と坐禅の二つを好きになる人が日本には極端に少ない。禅宗教団の坐禅や禅僧の姿を見て禅を嫌悪するのだろうか。ここに、日本の問題がある。
(なお、安藤氏の本書には、仏教のそのような部分を応用した、日本での心理療法については記載がない。日本では今後の課題としてある。紹介されているのは、みな、欧米の例である。)
(注)
- (1)安藤治「心理療法としての仏教」ー禅・瞑想・仏教への心理学的アプローチ)法蔵館、2003/10、233頁。
(B)日本では見過ごされてきた
欧米では、瞑想(坐禅に似た方法)による精神療法が大きな成果をあげているが、この方面の研究が日本では、全く、遅れている。日本の足元にありながら、見捨ててきたのである。
「すでに現代の心理療法として、瞑想をさまざまに応用しようとする実験的試みが数々なされてきていることは、前章で紹介した。その成果が実を結ぶのは、わが国を含め東洋と西洋の治療文化が豊かに融合を行っていく、これからの時代の最も大きな課題となるであろう。だが、今の私たちにとっては、たとえそれがわが国の伝統的文化であるとは言っても、禅や瞑想はーー西洋人と同じようにーーまったく新しい文化として目の前に現れたものであり、その探求のまさに入口に立ったにすぎない。今後は、私たちの足元にありながら見過ごされてきた大切な精神文化の伝統に、一歩ずつでも近づきながら、先人たちの残した莫大な遺産を掘り起こしていく作業が必要になる。」(1)
」
釈尊の仏教には含まれていたのに、その宝を見過ごしてきた。それを、部外者である欧米の精神科医、心理療法家が拾ってくれる。日本でも、仏教学者ではない精神科医の安藤氏が拾おうとしている。
仏教でも、他のことに喜びを見い出す人々には、心理療法としての禅は、見えなかったか、自分の喜び、自利(2)には役に立たないので、他者の救済面に活用することが少なく、大乗仏教が批判した。
(注)
- (1)安藤治「心理療法としての仏教」ー禅・瞑想・仏教への心理学的アプローチ)法蔵館、2003/10、215頁。
- (2)結局、自分の喜びに執著してとどまり、仏教や禅の実践的な効用=思想ではなく苦悩の実際的解決、他者の救済に使わず、自己満足にとどまることが多い。そこを釈尊や大乗仏教が批判した。
(C)「同一化」からの解放=安藤氏の仏教や瞑想(坐禅)の理解
安藤氏は、西洋心理学における瞑想の応用に関する研究を紹介していくが、いくつかの心理学の用語が出てくる。なかでも「同一化」という言葉がしばしば出てくる。この定義を知っておかないと、理解できなくなる。仏教との対比をしながら、説明していて、この記事でご紹介する上で、必要であるから、その定義をみておく。
「まず、前節でもキーワード的に頻繁に取り上げた、西洋心理学で使用される「同一化(identification)」という概念について考えてみることにしよう。
「同一化」は、精神分析理論の説明概念としてフロイト以来使われてきた用語であり、発達の過程において、自己が対象そのものやその属性を内部に取り込み、自らのものとする無意識的メカニズムを指す用語である。(略)
仏教には、これと完全に一致する用語は見当たらないようだが、類似したものとして「執著」という言葉を挙げることができる。西洋心理学における「同一化」と同じく、仏教における「執著」も、その教説に欠かすことのできないほど重要な位置をもつ言葉であり、仏教を心理学として捉えようとするならば、ここで両者の意味を対比してみるのは無駄なことではないだろう。」(1)
次に、仏教の「執著」についての説明がある。仏教の「執著」については、ここでは省略する。
「では、この「愛」ないし「煩悩」は、西洋の心理学ではどのように捉えられるだろうか。
好ましい対象に対しては愛著・貪欲の心を起こし、好ましくない不快な対象に対しては憎悪の心を起こすのは、人間の生の不可避な性質であろう。「愛」や「煩悩」は、仏教では否定的な意味合いを含んで使われるが、人間が生身の肉体と精神をもった存在である限り、そうした心理傾向は自然な性質であると考えられる。ただ、そのような性質は、根本的に突き詰めていくと、「死の拒絶」から生まれてくるものであることは、これまで見てきたとおりである。
前に「自我をめぐる問い」のところ(第一節)で引用したように、ベッカーのすぐれた分析によれば、幼児(人間)は、生来の無能という現実的事実(死の恐怖)を回避することによって、自分が自分の生と死をコントロールしているという感覚や、自分が”誰か”であるという感覚をもつようになる。つまり、「同一化」と「執著」は、死の恐怖から逃れる方法という点で同一の意味をもつ言葉である。
ただし、「同一化」という言葉は、死の回避に基づいて自我(主体)が行う積極的で能動的な側面、つまり世界や対象を「のみ込み」「取り込む」という作用に重点が置かれたものであり、「執著」という言葉は、その消極的で受動的な側面、つまり世界や対象に「執らわれる」「惹かれる」という作用に重点が置かれたものと考えられる。これらは、両者とも無意識的になされる心理過程であり、それを意識に上らせること(「脱同一化」)が、治療的機能につながるという点でも共通したものである。」(2)
思考におちいっていることは「思考への同一化」であり、食事をしながらテレビを見ていると、味がしない。これはテレビから出てくる刺激への「同一化」であると安藤氏は説明する。仏教は、「脱同一化」の技法であると安藤氏はいう。
無意識になされる「同一化」が心の病気におちいらせるが、治療は「脱同一化」である。
「こうした無意識的になされているさまざまな「同一化」は、それが意識されれば、必要に応じて手放すことが可能になる。これは「サイコシンセシス」という治療体系を築き上げたイタリアの精神科医、ロベルト・アサジョーリが心理療法の技法の一つとして位置づけた「脱同一化」という概念である。
「仮面」への同一化は、いつか、何かのきっかけで反省されなければならない時がくるにちがいない。その時、人は「仮面」から「脱同一化」することを迫られる。なぜならそれは「本当の自己」ではないからだ。もし人が「自己実現」を求めて歩む存在であるとするなら、人はいつも深いところで、「本当の自己」を目指して生きていると言えるだろう。
「本当の自己」になるためには、「仮面」を剥ぎ取り、さらに「自我」への「同一化」をも手放し、そこから分化してきた自らの「身体」を取り戻さねばならない。そしてさらには、この「身体」との「同一化」さえも手放し、自らが分化してきた「環境」と一体になる(自他の二分法を超える)ことにまで、進んでいく必要があるのかもしれない。この過程は、人間の自然な発達としてなされていくものなのであろうが、心理療法はその自然な発達の滞りを解き、この過程を促進させるものとして機能する有用な方法と位置づけられるにちがいない。後に詳しく述べるが、仏教的実践の代表である瞑想(瞑想については次章で独立した一章を設けて述べる)もまた、この(とくに後半の)過程を促進させるという点で、同じ機能をもつ「心理療法」とみなすことができる。」(3)
これに続いて、仏教の「瞑想」は、「脱同一化」の技法であるという。
「瞑想(とくに洞察型のもの)では、そこに起こっているあらゆる出来事に注意の目を配ることが目指されるが、注意が配られたらそれに「執著」(「同一化」)することなく、また別のものに注意が移っていく自然な過程にまかせていく作業」が行われ続ける。このような過程は、「同一化」という「接着剤」を溶解させて緩めながら、「脱同一化」を促す技法とななすことができるであろう。そこでは、「同一化」していた症状やいわゆる「古い自分」に対して、それらを相対的に捉えることのできる視点が生み出されてくるという、すぐれた治療的意義が存在していると考えることができる。」(4)
このように、安藤氏は、精神科医として、瞑想(特に仏教の禅)の意義を認める。しかし、困難がある。その瞑想は、どのような瞑想(坐禅)でも、これを達成するというのでもない。苦の洞察、苦悩する自己の洞察型の瞑想がよく、治療的意義を持つ。その観点からは「目的のない坐禅」や「悟りを目指す坐禅」や「思想を重視する仏教」では、その効果は薄い。心の病気を病む段階の「苦や心の洞察」が軽視されるからである。実際、安藤氏は、瞑想を応用した欧米の心理療法を数多く紹介しているが、日本では、そのような応用例はないと言うのである。だから、すぐれたものが、仏教にはあるが、現代の禅にはないのである。悟りを得た師家であろうとも、心の病気の人々のカウンセリングを行う師家はいない。悟りを目指す禅も一種の洞察型であるが、深さが異なる。心の病気のような段階の苦の共感と、その段階の「脱同一化」の禅の実践を行う師家も研究者も、これまでは日本にはいなかった。
仏教の原点から、同一化、脱同一化の療法としての側面を、研究し直さなければならない。違う禅に「同一化」している僧侶や学者ではなくて、その執著から脱している精神科医や心理療法家によって研究が進められなければならない。仏教の思想、研究が好きな者や他の目標を持つ坐禅が好きな者は、心理療法の研究には熱心になれないから、経典や禅の実践から意味ある情報を抽出できないからである。人間は、自分の好きなものに「同一化」するからである。同一化する者は、同じような傾向を持つ人の「脱同一化」の技法を教えることはできない。
仏教や禅が日本にはあるが、苦の洞察型の仏教や禅の実践は日本にはなかった。安藤氏の着目した視点も日本で推進していくのは、かなり難しいであろう。安藤氏が紹介する欧米の研究者に学ぶことになるであろう。
(注)
- (1)安藤治「心理療法としての仏教」ー禅・瞑想・仏教への心理学的アプローチ)法蔵館、2003/10、100頁。
- (2)同上、102頁。
- (3)同上、104頁。
- (4)同上、105頁。
(D)瞑想に注目した心理療法者=フロイト
このあとは、別ファイルです。