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欧米の心理療法の潮流=瞑想の重視(2)
(A)(B)(C)(D)(E)(F)(K)を追加しました。
(工事中)
瞑想を応用した心理療法=欧米の新しい潮流
禅や瞑想の心理療法への貢献について、安藤治氏(花園大学教授、精神科医)によって報告されている。
安藤氏の著書の中から次の内容を、少しずつ、紹介する。
(D)瞑想に注目した心理療法者=フロイト
「自由連想法」「平等に漂える注意」
著名な心理療法家のフロイトもユングも、東洋の瞑想を評価しなかった。しかし、フロイトとユングとでは、違うところがある。フロイトは、東洋の瞑想に注目したものの、全く評価しなかった。瞑想にも種々あるのに、評価できる瞑想を発見できなかった。
「フロイトは、宗教的体験あるいは大洋体験と呼ばれるものをすべて、自我発達の最も原始的な段階への心理的「退行」の産物とみなしていた。その伝統を受け継いだ精神分析的視点は、その後も瞑想に対して強い拒絶感をあらわにするものが続いたのである。」(1)
カウンセラー、精神科医に要求される態度
ところが、皮肉にも、フロイトの言うことは、仏教であると安藤氏は、言う。
「瞑想と自由連想の類似点については先にも述べたが、そもそもフロイトの精神分析は、彼が言う思考する精神の「批判的能力」を停止させることが可能であるという発見に基づくものであった。そしてフロイトは、後の精神分析家たちに繰り返し「判断を・・・停止し、観察すべきすべてのものに対して片寄らない注意を・・・向ける」よう勧告したのである。そのような態度を崩さず、自分の心的内容に関心を持ち続けながら、それでも患者の話に耳を傾けること、これはまさに瞑想であろう。フロイトは、それを「平等に漂える注意」と呼んだが、それは、東洋の仏教者たちによって数千年の間実践され続けてきた、瞑想という注意の姿勢である。彼はそのことをまったく知らずに、たった一人でそのような態度を発見し、修得した人物だったと考えられる。フロイトは、それを精神分析に携わる医師の規範とさえ考え、次のような態度を述べている。「医師は自らの注意の能力への意識的な影響をすべて差し止め、自らを自身の『無意識的記憶』に委ねなければならない。または純粋に技法としていうと、医師は単に耳を傾けるべきで、何かを覚えているかには煩わされるべきではない」。
しかし、フロイトのこのような主張は、後の精神分析家たちに引き継がれることはなかった。それは現代でも同じであろうが、そのような注意をもった意識の状態があるということ自体なかなか理解できるものでないし、ましてやそれをフロイトの忠告だけから汲み取り、実際に行うのは、かなり難しいことだからである。フロイトの勧めを実現させようと苦闘している人たちもいたようだが、主流の精神分析家たちからは、「ただ自らの無意識の中に漂っているだけで、ほとんど何も作業をしていない」という否定的評価がなされただけであった。
ともかく、このように振り返ってみると、現代の心理療法の基礎を築いた精神分析が、その出発点において瞑想とほとんど同様の意識的状態を重視していたという点については、もっと注目されるべきであると考える。すでにこの点を再認識して心理療法における瞑想の重要性を発掘し、現代の心理療法に生かそうとする努力からは、非常にすぐれた成果がもたらされている。」(2)
フロイトの「平等に漂える注意」や
「精神分析に携わる医師の態度」は、後継者からは理解されなかったようであるが、禅の修行からは、よく理解できるものである。これは、クライアントに指導する治療技法ではなく、カウンセラーのとるべき態度である。心を一つのもの(感覚、見解など)に執著せず、奥に潜む偏執見、見取見などにとらわれないような工夫を常に続けているが、これと同様のことをカウンセラーに要求するのがフロイトの趣旨のようである。クライアントの様子、言葉などの一つにとらわれて、十分にクライアントの話をきかないうちに、自分の枠組みにあてはめようとすると、判断ミス、誤診などを起すかもしれない。まだ、自分の知らない種類の問題かもしれない。早計な判断は、クライアントの利益を損なうことがあるであろう。自分の枠組みは、時として、偏見、見取見となり、他者に害をなすことがある。カウンセラーは、心を柔軟にして、クライアントのすべてを見る必要があるというのではなかろうか。禅者が、参禅希望者に会う場合にも、それが必要であろう。禅の修行段階でさえ、偏執見、見取見などは、自覚できるようになり、捨棄すべきものとして指導される。まして、苦悩する他者の参禅を受ける場合には、フロイトが言うのと同様の注意が必要であろう。
「自由連想法」=治療技法
次にフロイトの治療技法のうちよく知られているのが「自由連想法」である。
「実はある見方をすれば、瞑想はこの点において、フロイトが創始した精神分析の古典的技法「自由連想法」と多くの共通点をもっていると考えられる。自由連想法とは、治療室という環境のなかで、ゆったりとした寝椅子に横たわり、心に浮かんでくるものを次々に言葉にしていく、という技法である。フロイトは催眠療法に限界を感じたところから、自由連想法を編み出していったと言われており、瞑想についてはまったく意識してはいなかったと考えられるのだが、自由連想法と瞑想との間に類似点を見るのは、決して奇妙なことではないように思える。」(3)
「自由連想法」の主な目標は、クライアントの意識下にあるものをカウンセラーが聞き出し解釈して、そこに治療的介入をすることにある。
「だが、注目しておきたいのは、近代の心理療法の出発点となった自由連想法は、そもそも「無意識」に対して治療的に働きかけるための有用なアプローチとして考え出されたものだということである。その意味で瞑想にも、その営みのなかにある「無意識」に働きかけるという側面を積極的に見ていく視点は重要である。」(4)
仏教や禅でも、人が自覚しなくなっている無明、偏執見、見取見などが自分や他人を苦悩させるもとであることを指摘している。仏教や禅も、無意識(無自覚)となっている根底のゆがみを意識の上に上らせて修正、捨棄していくことを指導される。そのような構造が似ているのであろう。
この社会も住みにくいが、自分も他者も自覚なく(無意識に)して、自分や他人を苦しめる偏見、見取見などを持ち(現在の無自覚)、それに執著して自我を貫こうとするので、自分や他人を苦しめ、心の病気になる。あるいは、他者を傷つけてまで我利を優先して利益をむさぼり、他者を苦しめる。そこで、禅、仏教は、そのように自覚されなくなっている根底の身勝手な観念(無意識)などを自覚(意識化)させ、修正、捨棄させることにより、自分と他人、つまりは、世界から苦悩を解消したいという願いを持つて、そのことに集中して取り組む手法をそなえている。ねらいは、フロイトと同様であろう。
(注)
- (1)安藤治「心理療法としての仏教」ー禅・瞑想・仏教への心理学的アプローチ)法蔵館、2003/10、145頁。
- (2)同上、156頁。
- (3)同上、156頁。
- (4)同上、133頁。
(E)瞑想に注目した心理療法者=ユング
「能動的想像」「創造的退行」
もう独りの著名な心理療法家ユングは、「能動的想像」という方法を生み出した。「「能動的想像」は、瞑想と心理療法について考える際、その中間と言えるような重要な位置をしめるものである」(1)。
安藤治氏は、次のように説明している。
「「能動的想像」とは、夢も含め何らかの内的イメージに意識を集中させようとするものである。それらに注意を注ぐと、イメージはさまざまに、自律的に、変化、発展していくが、その様子をまるで芝居を見る観客のように、じっと見つめ続ける。そして、ただそのイメージの変化を受動的に追いかけているだけでなく、それらに積極的に関わりながらも、その変化をしっかりと記憶して留めておくという方法が「能動的想像」である。」(2)
これも、瞑想の一種(禅とは異なるが)であろうが、瞑想は、退行か成長かという議論があったが、「フロイト派の学者たちのなかからも徐々に、瞑想を単なる「退行」として捉えず、成長を促す側面があることに着目しようとする意見が生まれてきたことを述べてきた。」と安藤氏はいう。
「ユングによれば、人間はつねに変化する外部の環境に適応しようと意識的態度を形成していくが、その態度が一面的になると、それに反するものが意識から排除され、抑圧され、そのことによって心のなかに対立する葛藤が生み出される。この対立葛藤の高まりが、心のエネルギー(リビドー)の動きを内面に向け、「退行」という過程を生じさせるのである。そして「退行」は、意識には捉えられないすべての心的過程を増加させ、無意識内容の価値を高めることになると考えられる。だが、その無意識内容は、フロイトが述べるような幼児期の性的色彩を帯びたものだけに限らず、意識にとっては部分的に不道徳で、醜悪な、さらには非合理的、空想的といった、まったく受け入れられない内容や傾向をもつものである。
「退行」によって心の表面に浮き上がってくるのは、こうした無意識の深層からくる「嫌なもの」である。それは、意識にとっては最初、一種の「ぬめり」のように感じられるが、それには、フロイトの精神分析が主張するような劣等な性質だけにとどまらない、それ以上のもの、つまり新しい生や未来に向けての可能性の芽が含まれているとユングは述べていた。
こうしたユングの見解には、「退行」という概念に関して、フロイトとは明らかに異なる理解が含まれているのがわかるはずである。ユングは、従来の精神分析においては否定的にばかり捉えられがちな「退行」のなかに、「新しい生や未来に向けての可能性」という、肯定的な側面があることを積極的に評価したのである。ユングの「退行」は、この意味で、時に「創造的退行」とも呼ばれる。
ユングのこの考え方を踏まえれば、先に述べてきたような、瞑想を「退行」と考える精神分析的見解も、必ずしも否定的なものとして捉える必要はなくなる。「退行」それ自体のなかに創造的な可能性、つまり治癒へとつながる肯定的要素を見ることができるからである。」(4)
禅は、イメージのようなものは用いず、むしろ、避ける。禅や仏教(苦の解決段階)では、自己の汚染の心(貪瞋癡など)を観る。その点で、ユングの手法とは異なるが、その効果は類似する。従来、無自覚であった貪瞋癡のために、自分や他者を苦しめていたことを洞察して、苦悩(心の病気など)から脱出するからである。その意味では、禅や仏教の手法(智慧ある坐禅)は、「退行」ということはない。新しい自己を発見し、新しい生に意欲的にかかわっていくからである。
仏教学者にも、坐禅を認めようとしない者がいるが、心理療法者のなかにもそのような傾向の者がいたのである。しかし、安藤氏によれば、「瞑想」(坐禅とは異なる側面があるが)を、成長への一歩とみる療法者がふえてきている。仏教学者が、このような欧米の新しい動きを知らず、原理主義的、思想絶対主義的に、禅の自己洞察的効果を否定することは、時代に逆行している。
生理学からは、東邦大学の有田秀穂教授の研究で、坐禅は、セロトニン神経を活性化させて、感情を抑制するので、感情(貪瞋癡によるものが多い)の暴走による、心の病気などを治癒させるという研究成果が公表されている。筆者(大田)のみるところでも、坐禅によって、心の病気などが確かに治癒している。それが、仏教の初期段階(苦の四聖諦)であったわけである。
アメリカでは、マサチューセッツ大医学部、ジョン・カバット・ジン氏の「ストレス緩和プログラム」などで、坐禅に似た(坐禅そのものも、取り入れている)手法で、心の病気や痛みなどの緩和に顕著な功績をあげている。日本では、禅や仏教がこういう領域で貢献することが遅れている。
(注)
- (1)安藤治「心理療法としての仏教」ー禅・瞑想・仏教への心理学的アプローチ)法蔵館、2003/10、150頁。
- (2)同上、151頁。
- (3)同上、152頁。
- (4)同上、152頁。
(F)瞑想に注目した精神科医=ダイクマン
「観察する自己」「脱自動化」
「観察する自己」により「脱自動化」=ダイクマン
「認知療法」の治療技法も多様であり、日本では瞑想を用いる療法家は少ないようであるが、認知療法に瞑想を用いることに積極的な人に、アーサー・ダイクマンがいる。
「瞑想研究に造詣の深い精神科医アーサー・ダイクマンは、「観察する自己」という概念を用いて次のような説明をしている。
瞑想は、観察する自己をしっかりと築き上げ、その視野を広げることによって、習慣的になっている知覚や反応のパターンの解放を直接もたらす。
対象へと向かう自己の動きが退き、それによる知覚の支配が止むにつれ、また、観察する自己が意識内容から引き出されてくるにつれ、人は、自動的に沸き起こってくる思考や感情や幻想の流れとの同一化を手放しはじめる。
強い感情や繰り返し現れる思考にすっかり気を奪われ、それまではまったく自動的な反応パターンを無自覚に取っていたが、瞑想のなかで「観察する自己」の目が生まれ、そこからの見方や姿勢が徐々に増えていくことによって、いままでの(自動的)反応パターンが向きを変えられる。そして、そのことによって、行動のコントロールや修正がもたらされるというわけである。ダイクマンはこのメカニズムを、「脱自動化」と呼んでいる。こうした見解は、先の「リラクセーション反応」などとはまったく異なった角度からの考え方だが、瞑想の理解にとっては、より本質的なところに焦点を当てているように思えないだろうか。
瞑想の医学への導入は、すでに述べたように、まず「リラクセーション反応」といった観点から接近されることによって、治療技法として理解されるようになったのだが、研究が進むにつれ、こうしたダイクマンのような理解の重要性と必要性は、ますます広く認識されるようになってきたと考えられる。」(1)
「瞑想」といっても、種々の異なるものがある。チベット、中国、東南アジアなどの瞑想や、日本の禅、はては、カルト宗教にも瞑想がある。種々の瞑想のなかで、認知療法に有効な「瞑想」はどれか?というと限られてくるであろう。
しかし、初期仏教にあって、私どもが行っている呼吸法は、ダイクマンのいうような効果をもたらしている。初期仏教から大乗仏教に用いられた種々の手法(坐禅と観法)(2)を用いて、自分の心を観察して、根底にある考えかたの偏り(仏教では「悪見」という)に気がつき、修正して、自動思考(仏教では「妄想」という)におちないようになるからである。妄想(自動思考)に振り回されて、苦痛の感情を起して、心の病気になり、自殺念慮まで起すようなクライアント(患者)が、呼吸法(注意集中法、不要機能抑制法、徹底受容法、機能分析法などを織り込むので、伝統的な禅とは異なる点が多い)をすると、2−3カ月で、「観察する自己」の目が養われて、根底の偏った観念(スキーマ、悪見など)が自覚され修正され、自分の苦悩の仕組みがわかり、妄想に落ちることが少なくなり(=「脱自動化」といってよいであろう)問題が軽減されたり、治癒に至る例がある。
(注)
- (1)安藤治「心理療法としての仏教」ー禅・瞑想・仏教への心理学的アプローチ)法蔵館、2003/10、126頁。
- (2)このような坐禅法の実際を指導している人は、ほとんどいない。安藤治氏も、日本には、まだないといっている。初期仏教や大乗仏教経典、道元の著作がこういう側面を持たなかったのかの研究は、全く解明されておらず、今後の研究課題である。
(G)その他の注目すべき心理療法家の瞑想の利用
マサチューセッツ大医学部、ジョン・カバット・ジン氏の「ストレス緩和プログラム」など。
(H)心理療法における3つのアプローチ
(I)実践が必要
(J)心理療法家(カウンセラー)も瞑想が必要
(K)瞑想には「落とし穴」も
欧米では、「瞑想」が医学の治療場面に応用されてきているが、落とし穴、危険性もあると安藤氏はいう。カウンセラーやクライアントは、慎重に「瞑想」にとりくむ必要がある。
「現代の一般社会に瞑想が広がり、実際の心理療法の現場でその臨床的効果を探る試みなども盛んになるにつれ、今度はかえってその実践によって精神の不調をきたしたり、実際に精神科の事例になるような場合さえ起こってくることも知られるようになってきた。」(1)
安藤氏は、次の例をあげている(2)。
- 1.思考・感情の氾濫、知覚の変容
強い絶望感、感情、恐怖などに襲われる。体外離脱体験のようなもの。幻覚。精神のコントロールを失う。自律神経失調症状、禅病。
- 2.現実からの疎隔
日常生活に戻る際に困難を見る。現実社会からの逃避や指導者に対して強い依存傾向(カルト宗教は、故意にこれをおこさせる=大田注)。
- 3.信心にはらまれる落とし穴
信心をもつ集団の中で行われる瞑想の場合、自分たちの信念を唯一正しいと主張して他の集団を排斥。自分を特別な人間だと思い込む傾向。(このような傾向は伝統教団、新宗教教団の中の一部の幹部や学者にもあるだろう=大田注)
- 4.「近道」としての瞑想
瞑想を学ぼうとする人々には、アイデンティティや自己評価の面で弱さや歪みをもった人たちがいて、個人の発達上の諸問題の解決を目的にして、瞑想を「近道」として利用しようとする傾向。仏教の真の意味が汲みとられないまま、自分たちの未熟な態度を正当化し合理化する。社会的な役割を放棄するような態度。
第四の危険性について安藤氏は「残念ながら、瞑想修行を看板にするような一部の新興宗教などには、このような人々がたくさん集まってしまい、ここに述べたような危険性があらわになってしまう傾向がある。」(3)という。
教団では、忠誠心・信仰心を永久に持つよう教団(または指導者)への依存心を持つように仕向けることもある。伝統禅の指導者でさえ、参禅者の数の多いことを誇る未成熟な禅僧もいるだろう。それでは、クライアントも未成熟なまま長くとどめられ、相互依存となり、心の病気の人のカウンセリングには危険である。クライアントの生活環境がかわり、ライフイベントなどで強いストレスを受けると、うつ病になったり、そして自殺などに至る危険性もある。坐禅に長く通っていても、そうなる危険性がある。
このように瞑想(坐禅も)には種々の危険性がある。その危険性を考えると、「瞑想」について、クライアント(患者)には、「適応と非適応」があるという(4)。だから、坐禅(宗教的)の指導者は、参禅者が非適応の人でないかを知るべきであろう。
有田秀穂教授(東邦大学医学部)も、「呼吸法」を間違って行うと、「過呼吸」「過換気」になってしまう人がいるという。坐禅や呼吸法は、指導者の指導を受けて行うほうがよい。
坐禅や「瞑想は、豊富な経験を持つしっかりとした指導者のもとで行わなければならない。」(5)と安藤氏がいうとおりである。
(注)
- (1)安藤治「心理療法としての仏教」ー禅・瞑想・仏教への心理学的アプローチ)法蔵館、2003/10、198頁。
- (2)同上、199-204頁。
- (3)同上、202頁。
- (4)同上、204頁。
- (5)同上、200頁。
(L)瞑想が欧米で研究、臨床化されてきたのに、日本では未開拓
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