第2章
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自己洞察瞑想法の立場と前提

第1節 自己洞察瞑想療法の立場・前提・仮説

<第1>現在一元論(今、ここ)

 自己洞察瞑想療法は、過去・未来は実在せず現在のみが実在するという立場に徹底してたつ心理療法である。

 心理的には現在のみがある。現在一元論の立場であるということ。そこから、現在の問題、現在の精神疾患の原因が過去にあるとしない。要因も現在にあるという立場から治療していく。
 これの正当性を主張するわけではなく、立場の表明である。この立場で心理学的な事象をとらえて治療すると有用であるためである。
 この立場は禅の哲学であると言われる。このテキストは哲学を論じる場ではないから、次のように禅の哲学についての記述を簡単にみるだけにしておく。
 ただし、間違ってはならないが、現在一元論が禅の哲学であるからといっても、それと同じ立場にたつ心理療法が宗教であるわけではない。同じく現在一元論に立つ医者、哲学者も個人も多いであろう。アメリカのマインドフルネス心理療法のいくつかは、前章でみたような、現在一元論の立場に立つ科学、医学である。自己洞察瞑想療法も同じ立場から心理的事象をとらえて精神疾患や心身症の治療、症状の軽減に臨む。

 竹村牧男氏は道元の時間の哲学を次のように要約している。

 「まず、存在を離れて時はなく、時を離れて存在はないこと。
 存在は、自己を含めて全体、刹那刹那、生滅するあり方にあること。
 したがって存在が有るのは各々の自己がいるその現在にのみであり、この現在の存在のみが時の内実を示しえること。
 その現在の存在から現在の存在へ、が、唯一、有ー時の原点であること。そこに経歴ということがあること。
 自己の存在を除いて現在はなく、現在の成立と自己の成立は一つであるがゆえに、存在の現在から現在へは、自己(の成立)から自己(の成立)へ(わがいま尽力経歴)にも他ならないこと。

 概略、以上のようである。
 道元の時間論は、非連続の連続を根本としつつ、正しく「永遠の今」に立つものである。尽界のあらゆる尽有が今にあり、その今が常に原成しつづけるのである。今というのは、自己が成立する時節のことでもある。今の成立に自己の成立があるのであり、世界の成立もそれに同参するのである。こうして、「わがいま尽力経歴」以外、何もないことになる。ここには、存在ー時間ー自己を一つの事として見る視点がある。有の現成と時の現成と吾の現成は、全く一つの事なのである。」(1)

 「我々の素朴な考えでは、自己というものは、身体とそれに付随する精神というように考えると思う。しかもそれは、無意識のうちにも、常・一・主・宰のあり方において想定されているだろう。しかし本来の自己は、主ー客(私ーもの)分裂以前に、花が咲き、月が照るところに見出されるべきであった。道元は「われを排列しおきて尽界とせり」と、一応、自己と世界を区別したが、それは日常言語的な分節化にあえてよせていった(しかしそのことにおいて主ー客対立的な通俗的分節を破した )までであって、元来は主ー客未分の一事実があるのみであろう(だからこそ、「わがいま尽力経歴」ということがいえるのであろう)。そこでは、内・外の空間的限定がとりはらわれるべきなのであった。 一方、その本来の自己は、恒常的ではありえず、ただ今にのみ見出されるべきなのであった。」(2)  ここに、現在のみということ、すべてのものが自己、自己と客観とが一つ、その2つが別ものと見られる分別以前が現在の事実であること、自己は恒常的ではなく今にのみあるもの、現在の瞬間は動的なもので次々と移り行くもので片時も止まらない(刹那生滅)など、禅の哲学が表現されている。 ここから「非連続の連続」と言われる。瞬間々々に、苦も楽もあり、慈悲の行動もあれば、非行犯罪もある。それもすべて瞬間である。次の瞬間、どうなるかわからない。前後切断している。そのような非連続の今の瞬間が次々と動的に生起する。非連続の連続である。今の刹那が生起した時には前の刹那は滅している。
 ここからは、部分と全体の関係では、全体のみが実在するという立場が導き出される。現在という瞬間に、見るということがある。聞く、思考するということがある。思考は感覚ではなく、言語プロセスである。見ること、聞くこと、思考することは、別ものである。人間の活動の全体をこのような要素、部分に分けて分析できる。ところで、現在一元論では、現在の瞬間しか実在しないとする立場であるから、「見る」時にはその瞬間が人(自己)の生きている瞬間であるはずである。瞬間しか実在しないならば、瞬間の自己が全体であるはずである。自己が部分であるなら、現在にすべてを生きていないことになる。見る、聞く、思考する、行動する、その一々が全体である。部分(要素)が全体である。これを次のように表記する。自己全体そのものを∞とする。  自己洞察瞑想療法のテキストで「感覚」「思考」「感情」などと記述している文字は、 「感覚/∞」「思考/∞」「感情/∞」という意味を含んでいる。これは、その部分と自己とが一つである。

 部分(要素)は全体として存在する。これを次に詳細に述べる。

<第2>部分のみは存在しない(全体実在論)

 過去も未来も存在せず、現在のみが存在するという立場は、多くの人が常識として首肯するであろう。この立場に徹底的に立つと他の重要な哲学も導きだされる。

 現在一元論は、また要素(部分)のみが存在することはなく全体が実在するという立場である。 ACTはこういう。

 「文脈主義は、その名の通り、時空間的に連続している事象の流れ、つまり文脈を、その世界観の中軸に据えた認識論的な立場である。そのため、認識論的にリアルなものは「部分」ではなく「全体」である。しかし、リアルでありながら全体を「全体」として記述することはできない。それ故に、何かを認識するためには、ある恣意的なゴールを選択する必要がある。」さらに、そのゴール達成の是非によって初めて、その認識の是非が判定できるようになる。ただし、そのゴール選択には当事者の責任が伴うことはあれ、その選択の正当性を主張することはできない。つまり、このゴール選択とは当事者による価値の表明と同じなのである。また、このゴールの選択、価値の表明によって、単なる相対主義、懐疑主義とは異なる立場となるのである。」(1)

 「機能的文脈主義は、予測と影響という統合的なゴールを選択する。そのようなゴールを選択をするという点で、記述的文脈主義とは異なる。また、心理学的な事象を、有機体が生起させる連続的な行為と、歴史的・状況的に規定された文脈との相互作用として捉える。さらに、分析行為が目的化したり、文脈とは切りはなされた一方的で部分的な操作主義を採らないという点で機械主義とは異なるのである。」(2)  要素(見る時には見ること)が個人にとっての生きている瞬間には全体である。要素が全体であるというダイナミックな動きが個人の生きている事実である。今の活動が全体であり、そこにすべての要素が現われる。要素と全体が関係しあっている。要素と全体が一体である私的事象が次々と変化していく。
 今という時間、その時の私的事象が人間存在の全体であるならば、善悪の評価を超えたものである。ここから、自己洞察瞑想療法の「無評価で観察」するという実践行動が導きだされる。 感覚、感情、(症状としての)内臓感覚などを「悪い」とか「あってはならないもの」という「言語による評価」をするならば、自己存在そのものの否定、嫌悪、抹殺の希望となる。葛藤が起きるのは当然である。
 また、烏を見るとしよう。それは「烏/∞」である。この時は、視覚情報/∞である。「カラス」という「言葉」ではない。視覚情報と言語情報は別物である。言語プロセスが精神疾患のクライアントに重要な働きをしている(「認知的フュージョン」)ので、感覚、感情などの直接体験を言語プロセスから切り離す(連合の解消=ディフュージョン)ことが、重要なトレーニングとなるのは、ここから導きだされる。
 この個人の評価以前の現在の瞬間を道元は「而今」(にこん)という。  上記のように、ACTで「時空間的に連続している事象の流れ、つまり文脈」というので、「而今」は「文脈」ということであろう。ただ、「現在」というと、過去、現在、未来という想定をおいて、対象的にながめた現在を思いうかべるだろうが、それはすでに言語での評価になっていて、「而今」ではない。比較以前の現在、評価以前である。「絶対の現在」は、ただ、「見る」という事象があるだけで、現在という意識もない。

「今」は自己と世界の相互交流の現場
 現在の瞬間のみがリアルであるから、自己環境の相互作用(いわば、「自己と環境世界は別ものではない」自他一元論)も出てくる。  現在の瞬間のみがリアルなのだから、自分が受け止める現在の瞬間の他者、環境の動きが 現在という瞬間にあって、その瞬間に自己が受けいれるのだから、自他は分別できない。
 ここから「自己環境一元論」の立場となる。この現在の瞬間の自己と環境は区別以前である。自己が変われば環境が変わる。環境が変われば自己が変わる。
 「自己行動一元論」も出てくる。この瞬間行動する時、自己は行動である。行動は意思である。自己が変われば行動が変わる。行動が変われば、自己が変わる。行動とは他者、環境、世界への働きかけである。他者、環境、世界が即座に自己に働く。この現在の相互交流の瞬間が永遠に続いていく。そうすると、行動が変われば自己、他者、環境、世界が変わる。自己が変われば、行動、他者、環境、世界が変わる。これは、治癒の原理である。
 この立場は、個人にも自己を変える意思が求められる立場である。他者、環境、世界が変わることを待つことは、期待できないかもしれない。治療行動を起こすほうが早い解決かもしれない。その時に、自分の願い、価値観が重要な動機となる。自己を変えたいという治療行動に主体的、積極的にかかわることの重要さも導きだされる。
 本人の治療行動が重要ではあるが、また、自己、他者、環境、世界が相互交流していくのが現在という瞬間なら、他者、環境、世界が変われば、自己(本人)が変わる。従って、社会構造を変えて、人の苦悩を変えていく支援の重要性も同様にある。

<第3>「心身一元論」

 多くのマインドフルネス心理療法も自己洞察瞑想療法(SIMT)も「心身一元論」の立場である。ただ、一般的には「身体」は、脳神経とまでは含蓄されないで、手足、内臓などが想定されているかもしれない。がんは心とは無関係の臓器の障害であるというように。
 SIMTでは、脳神経も身体であるとみて治療に有用であれば介入する方針を採る。心理的柔軟性の欠如は身体つまり脳の現在の神経生理学的変調が影響している。心理的活動が神経生理学的影響によって精神症状、身体症状を引き起こし、これら症状が心理的活動を規定している。この相互作用を「神経生理学的フュージョン(連合)」と呼ぶことにする。「神経生理学的フュージョン」の視点で問題を分析する時にも 過去に原因ありとせず、現在の心理的柔軟性と現在の神経生理学的の連合を分析し、要因を洞察する。
 いわば、「心脳一元論」とでも言うべきことが、精神疾患の現実であることは、最近の脳神経科学の研究によって明らかにされてきている。だから、うつ病や不安障害などの人に、「怠け」とか「たるんでいる」とか「心の持ち方が悪い」などというのはその人を追い込む誤った見方であるかもしれないということになる。

 精神疾患治療の目標は、薬物療法でも心理療法でも、心理的柔軟性の欠如、神経生理学的変調を変えていくことであろうが、薬物療法によらずに、セラピストの言語によって、クライアントの2つの脆弱性に影響を与えるのが心理療法である。他の心理療法は神経生理学的変調を直接の標的とはしないものが多いが、SIMTでは、神経生理学的変調が重要であると「推測」される場合には、そこを標的とする戦略を考える。心理プロセスと神経生理学的変調が相互作用している(「神経生理学的フュージョン」)から、どちらを標的にしても、他に作用して治療に有用であると考える立場であるからである。たとえば、運動すれば前頭前野が変化する。前頭前野が変化すれば、うつ病の精神症状の意欲がない、という症状に影響するかもしれない。それをセラピストがクライアントに言語で伝える。多くの抗うつ薬はセロトニン仮説によって開発されてきた。抗うつ薬を服用すれば、セロトニン神経という身体(脳)に変化を起こして、意欲がないという心理的な症状を変化させるかもしれない。薬物療法と心理療法は類似したプロセスである。
 クライアントの問題を定義して、連合を分析して要因を心理的柔軟性の欠如と神経生理学的変調の両方か一つの視点から要因が推測できるならば、セラピストはクライアントの治療を開始できる。介入して影響を与えることが「治療行動」である。この影響を与える方法、つまり、技法がセラピストにとってもクライアントにとっても習得が容易で、治療効果があると有用性が繰り返し確認された技法を開発することが科学者(心理療法者)の任務である。1人1人のセラピストは、従って、このような立場、前提、仮説などを理解して、精神を理解し、技法の言葉尻にとらわれることなく、自分でも体験実践して、自分の言葉で語ることが望ましい。こういう背景のある心理療法であるから、ACTでも、数多くの技法、メタファー(比喩)が試みられている。

傾聴だけの技法は用いない

 自己洞察瞑想療法はマインドフルネス心理療法である。いくつかの技法を積極的にセラピストから語りかけて行動の変容を期待する。もちろん、問題を傾聴もするが、問題を定義して、要因を洞察し、影響を与える技法を選択する情報を得るのが目的で傾聴する。セラピストは傾聴の次にその問題の連鎖分析をして要因を推測して、改善の指導をする。多くの説明、トレーニングがある。従って、要因を推測できない問題や障害についてはセラピストは治療を行なわない。倫理である。要因を推測できないことは、セラピストがその原理をよく理解していない場合とか、特定の疾患について学習していない場合にも起きる。
 セラピストの力量で影響を与えることができない(と予測する)脳機能や過去のことは原因として扱わない。

 「機能的文脈主義では、対象に対する「予測と影響」という統合的なゴールを選択するからである。ただし、主たるゴールは「影響」を引き起こすような環境的変数の同定とその操作である。「予測」はあくまで、その環境要因が同定できた後に結果的に達成される副次的なものという位置づけである。「予測」のみが可能となっただけではゴールが達成されたことにならない。よって、セラピストが直接的に影響不能な脳機能や過去の経験は原因として捉えないのである。つまり、機能的文脈主義に基づくセラピストは「心身二元論(dualism)」や「過去・現在の二元論」の立場を採らず、「環境一元論(=行動一元論)」や「現在一元論(今、ここ)」の立場を採るのである。
 しかし、クライエントが一般的に持っている「心身二元論」的な発想それ自体を否定するということを意味しない。例えば、クライエントが心身二元論的な思考をしていても、不安や強迫観念を持っていてもよいのである。ただし、それらに縛られることなく、適応的な行動が生起するようになればよいのである。つまり、セラピストは、分析をする際に使用する枠組みと、実際にクライエントと接する際に使用する枠組み(言葉遣いを含む)とを使い分けるのである。(Heyes, Pistorello, & Walser, 1995)。」(1)(28頁)  セラピストはクライアントの変化のスキルを指導するが、上記のように、クライアントの思想、宗教などの「認知内容」について踏み込むことなく治療できる心理療法である。

<第4>治療戦略は真実の追究ではなく有用性基準

 自己洞察瞑想療法は医学、心理療法である。真実であるかどうかが重要ではなく有用性が重要である。アクセプタンス・コミットメント・セラピー(ACT)も「有用性基準」を採ることは、第1章第4節でみたとおりである。リネハンの弁証法的行動療法も同様である。
 「行動分析では患者とセラピストはこれらの洞察を検証しようと試みるのである。しかし、心にとめておくべきことは、他の理論と同じように、そのような解釈は「真実」の見地からでは評価できず、有用性の見地からのみ評価することができるということである。それは変化のプロセスにおいて役立つこともあれば役に立たないこともあり、ときには実際に有害ともなり得るのである。」 (1)
 自己洞察瞑想療法も同じく「有用性基準」を採る。問題行動や精神疾患などについてのセラピスト自身の「洞察」を提示する。不変の事実ではなく検証されるべき仮説として提示する。 洞察は、自己洞察瞑想療法の立場、前提、仮説による。仮説は主として、心理的柔軟性の欠如と神経生理学的フュージョンによる。弁証法的行動療法においても「セラピストは洞察を構造化するために患者に関するDBTの前提と生物社会理論を利用する」(2)。

 真実であるかどうかが重要ではなく有用性が重要であることから、セラピストは、理論や技法に固執しない。セラピストとクライアント、セラピストチームのメンバー間で意見が対立する時には、お互いを否定せずに、有用な解決策を総合でさぐる。意見は両方ともそれぞれの仮説、基準からみれば妥当である。重要なことは、それぞれの意見の真実性ではなくて、クライアントによい方向での変化を生じさせることができるかどうかである。
 自己洞察瞑想療法では、4つの智慧の概念を提案している。クライアントが、そのような叡智を開いていけば、苦悩や対象や自己について別な扱い方ができるようになって精神疾患が治癒するという仮説に基づいている。似たようなことは、弁証法的行動療法でも「賢明な心」(3)という概念を提案している。ACTでは、苦悩する人が思う「概念としての自己」ではなく「文脈としての自己」を提案して、それを体験する技法を指導している(4)。
 これらの概念が真実であるかどうかよりも、境界性パーソナリティ障害やうつ病、不安障害の治療に非常に効率がよいという効果があれば、それは有用である。こういうところでは、記述は精緻ともいえない、しかし、医学としては有用である。
 こういうマインドフルネス心理療法の方法や哲学、記述スタイルについて、 非常に精緻、正確に見える理論体系、たとえば、インドの部派仏教のアビダルマ、大乗仏教の唯識、仏性論、禅の難解な学説のごとく精緻、膨大な理論でもって、このような心理療法の批判を受けることがあるとすれば、次のことで議論は棚上げにしてもよい。  たいてい、他の体系は、うつ病や不安障害などを治癒させるという目標ではなくて 自己の真実とかいうことを目標としている。基準が違う。精神疾患や問題行動を治すことに有用ではない基準に基づく議論は、医学としての心理療法には無益である。同じく心理療法(たとえば、認知療法)との間でも、意見の対立は平行線であろう。仮説が違うから、どちらも合理的である。議論を続けて、クライアントが治ればいいが、その見込みが立たなければ棚上げにするのがよいだろう。
 最も重要なことは、クライアントの問題解決に有用な治療法、効率のよい治療法を探索、開発していくことである。従って、自己洞察瞑想療法も日々、変化、進歩していく。このテキストの文字は大幅に書き換えてもいい。文字に執着せず、治療機能に着目して、進化していくべきである。
 多くのセラピストが習得できるようにあまり難解ではなく、あまり膨大ではないテキスト、あまり難しくない技法をめざすことも「有用性」であろう。これも考慮して、習得のための学習法も研究されなければならない。難解な心理療法はセラピストもクライアントも習得できないので有用ではない。

<第5>心理的非柔軟性と神経生理学的変調の仮説

 自己洞察瞑想療法(SIMT)では、精神疾患や問題行動は心理的柔軟性の欠如によっておきるとする。それは、直観的な叡智が充分働かないからであるとする。また、心理的柔軟性の欠如は神経生理学的変調を引き起こし、神経生理学的変調は心理的非柔軟性を維持悪化させる。心理的非柔軟性と神経生理学的変調は互いに影響しあう(神経生理学的フュージョン)。

A)心理的柔軟性の欠如

 2つの反応パターンがある。「価値実現の反応様式」と「価値崩壊の反応様式」である。「価値崩壊の反応様式」は、心理的柔軟性の欠如によって起きる。その心理的柔軟性の欠如は、神経生理学的変調(神経生理学的フュージョン) によって影響されている。(詳細は「自己洞察瞑想療法の基礎」を参照)
 心理的柔軟性の欠如は、次の6つの心理的スキルの不足によってひきおこされる。 6つの心理的スキルの不足があると、非機能的行動や精神疾患をひきおこしたり、維持・悪化する。 6つは相互に関係している。個人によって6つの不足の程度は異なる。心理的柔軟性の欠如が起きるのは直観的な叡智が充分に働かないからである。

B)神経生理学的脆弱性

 「問題」が改善しにくい背景には社会環境的な要素のほかクライアントの心理的柔軟性の欠如と神経生理学的な脆弱性が存在することが多い。精神疾患の診断基準を満足しなくても、心理的柔軟性の欠如と神経生理学的な脆弱性が存在することを推測する。 たとえば、不登校、ひきこもりという問題行動の背景に意欲がない、対人恐怖、対人緊張があるかもしれない。その背景には神経生理学的な問題が生じているかもしれない。
 心理的柔軟性の欠如の背景には神経生理学的脆弱性があるという仮説を持つ。弁証法的行動療法も神経生理学的基盤について考慮している。

 「DBTは、パーソナリティ機能の生物社会理論にもとづいている。そこで主に前提とされているのは、BPDが基本的には情動制御システムの機能不全だということである。またそれは、生物学的な異常が特定の機能不全的環境と結び付ついただけでなく、両者が時間をかけて相互作用し交流し合った結果としてできあがったものである。」(1)
 「人が何を意図し求めているかとは別の、脳に対する強化の物理的影響について論じてもよい。強化の結果は脳内の化学的変化を引き起こし、神経回路が変化する。」(2)

 うつ病やパニック障害などには認知的フュージョンだけでは、症状や問題行動を説明するのが難しく、治療方針をたてにくい。そこで、神経生理学的フュージョン(仮説)を提案する。
 症状が改善しなかったり、非機能的行動が繰り返されるのは、認知的プロセスによるだけではなく神経生理学的変調があるからである。これが、認知や行動に影響する。また、認知や行動は神経生理学的変調に影響するという仮説である。
 繰り返される問題行動の背景に生理学的脆弱性がある。生理学的脆弱性は機能亢進と機能低下である。それとの連合によって、意識上の行動が起きている。
 なお、現在しかないという立場からは将来の苦の軽減を待つことはできない。 「今、ここ」で苦悩を解決したい。そこで、4つの智慧のうちの「無評価の智慧」を体験する。私的事象を無評価で観察する時には非機能的行動は解消されている。不快事象の受容がされている。そうすると、すべての症状が未来に解消しなくても、言語プロセスで増悪される苦痛は軽減される。
 ただし、神経生理学的な基盤も不変の真実ではない。たとえば、うつ病のセロトニン仮説が変わりつつある。SIMTのセラピストは、その当時の脳神経生理学の研究成果を参照して、この仮説の中身は最新の研究成果に変えていくべきである。 たとえば、うつ病の心理療法的技法として、セロトニン仮説によるもの、前頭前野機能低下仮説によるものも考慮する。治療効果を高める有用性のための一つの戦略である。

C)神経生理学的脆弱性に関わる仮説

a)脳部位に機能亢進モデルと機能低下モデルがある
 神経生理学的脆弱性は機能亢進すると問題を悪化する部位がある。扁桃体や交感神経の過敏、発作の責任部位とされている部位である。これは、使用頻度を少なくするようにすれば改善の方向に導かれるという仮説を提案する。
 一方、機能の低下により、症状が維持悪化する脳の部位がある。前頭前野の意欲、ワーキングメモリ(作業記憶)、コミュニケーション機能などである。こういう部位の機能低下は、リハビリテーションのごとく、徐々に使用頻度を増していくと改善するという仮説を提案する。
 解決策は、機能亢進モデルの部位を推測して、抑制スキルのトレーニングを助言する。機能低下モデルの部位を推測して、その部位の使用を増加させる技法のトレーニングを助言する。 (参照)マインドフルネス心理療法の基本(10)「これからの課題」22ページ

b)急性ストレスと慢性ストレスは相互に関係しあう
 急性ストレスと慢性ストレスは相互に関係しあう。日常的にあまり強くはないがストレス、不満、精神症状、身体症状などがある(慢性ストレス)と、通常の人では大きく反応しないような出来事、刺激に大きく反応して、強い感情をおこしたり、発作を誘発したり、非機能的行動が起こりやすい。一方、急性ストレスが頻繁に起こると、言語による否定的思考、予期不安の拡大などが起こり、慢性ストレスを起こしやすい。
 治療方針として、日常感じている慢性ストレスの対処法をトレーニングすることによって、慢性ストレスが軽減されると、心理的、神経生理学的な苦痛が軽くなる。それが、急性のストレスの対処法や発生頻度に影響する。

<第6>自己洞察瞑想療法の前提

 自己洞察瞑想療法(SIMT)を提供するセラピストが前提とすべきことをあげる。前提は事実ではないが、精神疾患のクライアントの治療をする時に効果がある。
 これらの項目は「弁証法的行動療法」の前提である(1)。境界性パーソナリティ障害の人を支援する時は、内容も弁証法的行動療法の前提となるべきだが、うつ病や不安障害などを扱う場合の前提をあげておく。内容は弁証法的行動療法と異なるが、項目は同じである。

1.患者はできる限りのベストを尽くしている

 患者の回避、非機能的行動が奇異に移るかもしれないが患者はベストを尽くしている。ただどうしたらよいかわからない状況にある。 セラピーにおける態度、行動もセラピストは受け入れるべきである。

2.患者は改善を望んでいる

 患者の治療が進展しない場合、患者がよくなりたいとは思っていないのだとはセラピストは思わない。何かの事情がある。

3.患者は変化に向けて、よりうまく行い、より懸命に取り組み、より動機づけられる必要がある

 セラピーが進展しない場合、要因を分析して、問題分析・解決対策作成戦略を用いて、患者の動機づけを支援する。

4.患者の問題はすべて彼ら自身が引き起こしているのではないとしても、彼らはとにかくそれらを解決しなければならない

 リネハンはこういう。「セラピストには患者を救えないということである。患者が自分自身を変えられず援助を必要としているのは真実ではあるが、それでも取り組みの大半は患者自身が行なうのである。」「セラピストには、患者に対してこの前提をはっきりと明確にしておくことが必要不可欠である。特に危機時にはそうである。」
 これは、SIMTでも同じである。「セラピストは道を教えるが道を歩いていくのは患者である。」 これもメタファー(比喩)。

5.自殺的な人の現在の人生のあり方は、耐えられないほどのものである

 これは、うつ病の患者も同様である。深刻である。

6.患者は関連するすべての状況において新しい行動を学習しなければならない

 とにかく患者の自立、セルフ・ケアの方向でのアプローチである。

7.セラピーにおいて患者の失敗はありえない

 治療からドロップアウトしたり、セッションに来るのに症状が改善しないのは、セラピスト側の未熟、多用な治療プログラムを提供できないからである。 治療を受けたいと思いながら、できなくなるのは症状が重いからである。遠いからである。患者を批判してはいけない(非受容となる)。患者の近くで受診できる、回数をふやす、入院、往診などのプログラムを提供すれば治る可能性がある。

8.ボーダーライン患者を治療するセラピストには支援が必要である

 面接した患者との関係のトラブル、スタッフ同士の意見の違い、セラピーそのものの疲れなど患者の支援をするうちにセラピストも疲弊する。うつ状態になりやすい。患者を避けたくなる。そういう場合、セラピストも他のセラピストからの支援が必要である。