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リズム運動でセロトニン神経が活性化(中)
リズム運動はセロトニン神経を元気にする
目次
(9)セロトニン神経が弱ると・・・
(A)(要旨)
セロトニン神経が弱ると、ちょっとしたことで興奮し、それを制御できなくなります。パニック障害、過食と拒食を繰り返す摂食障害、朝の寝起きが悪くなり、姿勢筋や抗重力筋への促通効果も弱まって、姿勢が悪く、すぐにしゃがみこんでしまいます。痛みに対する反応が過剰で、コントロールがきかない。ちょっとした痛みで大騒ぎすることになります。切れる子供にあらわれる現象が考えられます。
脳内のセロトニン濃度を高く維持するクスリがあるが、副作用の心配もあり、クスリを使わずに、リズム運動を継続することで、弱ったセロトニン神経を鍛え直そうではありませんか。
(B)(HPから)
「切れる子供、パニック障害、うつ病などの治療に、欧米はじめ日本でも、SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)が使われてきています。脳内のセロトニン濃度を高く維持するクスリです。欧米では、最近、風邪薬のように汎用されているとも言われます。副作用の心配もあり、クスリを使わずに、何とかしたいものです。生活習慣病であれば、なおさら、クスリを使わずに克服したいものです。自分にあったリズム運動を継続することで、セロトニン神経が活性化されるのです。副作用がないのも魅力です。弱ったセロトニン神経を鍛え直そうではありませんか。」
(C)(考察)
こういう問題やうつ病、自殺防止のために、呼吸法をおすすめしている。
(10)「息を詰める生活」
(A)(要旨)
最近の職場では、デスクワークが多く、コンピュータ画面を見ながら、ほとんど身体を動かさず、仕事に集中するあまり、無意識のうちに息をつめてしまいます。浅くて小刻みな呼吸パターンになっています。子供は、ファミコンでゲームをすることが多くなっているが、ファミコンによる息をつめる生活を繰り返していると、セロトニン神経が弱り切ってしまい、気分を落ち込ませ、感情を制御できなくし、それがきれる子供を作ってしまう、と考えられます。
その解決策は、リズム運動を最低30分行えばよい。
(B)(HPから)
「私たちは生きるために呼吸します。生まれてから死ぬまで、寝ているときも休むことなく呼吸のリズム運動をやめません。自律機能としての呼吸がそこにあります。ところが、この自律性の呼吸を、仕事の緊張は、知らず知らずのうちに抑えてしまいます。仕事に集中するあまり、無意識のうちに息をつめてしまいます。特に、最近はデスクワークが多く、コンピュータ画面を見ながら、ほとんど身体を動かさない。エネルギー消費の点では睡眠時とほとんど変わらないので、呼吸量も少ない。ところが、やっかいなことに、仕事で緊張している時には、呼吸を無意識のうちに強く押さえつけて、浅くて小刻みな呼吸パターンになっています。寝ているときには、静かでゆったりとした呼吸パターンをしているのとは大きな違いです。」
「現代の子供がファミコンによる息を詰める生活を日常化させると、セロトニン神経が弱ってしまう可能性を先に説明しました。実際、ファミコンをやっている時に、呼吸を測定してみると、ほとんど呼吸をしてない位に、息をつめています。それを、毎日、しかも、数時間も繰り返していたら、セロトニン神経は弱ってしまっておかしくありません。ふつうに生活していれば、3のレベルのセロトニン神経の活動が、2や1に落ちてしまいます。ファミコンによる息をつめる生活が日常化してしまうと、セロトニン神経が弱り切ってしまい、気分を落ち込ませ、感情を制御できなくし、それがきれる子供を作ってしまう、と考えられます。」
(C)(考察)
大人も子供も身体を動かさないために、セロトニン神経は弱っているという。その解決策がリズム運動であるという。それなら、職場のちょっとした息抜きの時間にもできる呼吸法をすすめたい。呼吸法は、正式な形で坐るだけではなく、仕事の合間の、息抜きにも、お茶を飲む時、施設内を歩いていく時にもできるものである。
(11)「あがり克服法」
(A)(要旨)
人前でスピーチをする時も「あがる」人がいる。手や声が震えるだけではなく、頭の中が真っ白になり、満足なプレゼンテーションができなくなります。
こういう時に、事前に呼吸法を実践しておくと、不安や緊張症状が軽減、解消されます。
(C)(考察)
ふだんから、呼吸法、坐禅のようなリズム運動を行っていると、「あがり」やすいという悩みを克服できる。あがりやすい人は、人目のあるところでのスポーツや芸能(テレビや舞台で)に実力を発揮できなかったり、素晴らしい業績をあげる実力を持っていながら、人前でのスピーチができなくて重要な役割を発揮できない企業人がいる。ふだんから坐禅していると、「あがる」という悩みはなくなる。腹式呼吸法や坐禅がセロトニン神経を活性化させるのだろう。
(12)「パニック発作との関係」
(A)(要旨)
パニック発作の場合には、窒息感という最も重い症状が現れます。実際に窒息状態にはなっていないのに、窒息して死ぬのではないかという恐怖に襲われます。酸素不足の状況が脳の入り口付近にある動脈のセンサーによって検知され、呼吸中枢のある延髄を介して、青斑核のノルアドレナリン神経に伝えられます。しかし、運動の開始や精神的な興奮など、いろいろな日常活動によって、軽い酸素欠乏は絶えず起こります。ところが、セロトニン神経の働きが弱っていますと、ほんの僅かの変化ですぐに窒息警報が発令されてしまいます。これがパニック発作のメカニズムです。
(C)(考察)
呼吸法や坐禅もよい。ふだんからリズム運動をしていると、セロトニン神経をきたえていくことになる。ある程度、セロトニン神経が活性化したところで、少しづつ「現実の場面」に近いところに出ていく(エクスポージャー法)ことで治すことができる。そして坐禅によって、ものごとの見方・考え方のかたよりを是正する心の探求をすれば(そういう自己洞察を織り込んだ坐禅ならば)、パニック障害の軽減に一層貢献する。人生上の他の出来事にも対処していく心がまえが養成されるだろう。
(13)「ダイエットを成功させるために」
(A)(要旨)
食欲や性欲などの本能的欲求が満たされた時、動物(人間も含めて)は快感を体験し、それに伴う生理的反応や行動が出現するようになります。この快の情動反応で主要な役割を果たすのがドパミン神経であり、それは中脳の腹側被蓋野という場所にあります。
セロトニン神経は欲望(食欲や性欲)に関連するドパミン神経をも抑制する。坐禅の呼吸法やジョギングなどのリズム運動で活性化されるので、無理なく、本能的欲望である食欲や性欲を調節できることになると言えます。それは、ダイエットを成功させることにも通じるものです。
(C)(考察)
セロトニン神経は欲望(異常な食欲や性欲)に関連するドパミン神経をも抑制するというので、摂食障害の人は腹式呼吸法を中心としたカウンセリングをこころみるとよいだろう。過食も拒食も、無理な「欲求」によるから、認知のゆがみが関わる。だから、認知のゆがみの修正をおりこんだ腹式呼吸法とカウンセリングが効果的だろう。
うつ病や不安障害、非行・いじめ、依存症、などにも微妙な「欲望」(短絡的な安定物へのむさぼり)の心理が働いているので、腹式呼吸法を用いる自己洞察瞑想療法は、ドーパミン神経の調節にも効果的に働くのかもしれない。
(14)「無について」
(A)(要旨)
坐禅の呼吸法を実践し続けて何年か経過すると、やがて無の境地に到達するとされます。この現象にセロトニン神経が関与することを説明してみましょう。
(ここは、禅にとって重要なテーマであるので、要約せずに、そのまま引用させていただきます。)
(B)(HPから)
「坐禅の呼吸法を実践し続けて何年か経過すると、やがて無の境地に到達するとされます。この現象を生理的に解釈し、それをセロトニン神経との関係から考えてみましょう。そもそも無の境地というものは限られた人にしか体験できないもので、定義するのは簡単ではありません。無について書かれた著述を参考にして、今、仮に、「あらゆる感覚入力および想起される雑念について、それらを一切注意することなく受け流せる状態」と定義してみます。この現象にセロトニン神経が関与することを説明してみましょう。
私たちは絶えず外界からの感覚刺激を受けて生きています。目からの視覚情報、耳からの聴覚情報、皮膚からの触覚、痛覚など、いわゆる五感からさまざまの入力を受けて生活しています。多くの感覚入力は、その場で捨て去られますが、生命に危険のありそうな感覚入力には注意が向けられて、一時的に記憶情報として蓄えられます。このような機能を司る神経として、海馬という構造が大脳皮質の内側(大脳辺縁系)にあります。情報処理という点では、図書館の受付のような役割をします。
一般に、図書館という所は、大量の情報を書庫に蓄え、必要に応じて情報を参照できるようになっていますが、日々の新しい情報も絶えず選択され書庫に追加されます。脳の中で、書庫に相当する役目をするのは大脳皮質の側頭葉で、海馬は側頭葉への入り口に位置し、種々の感覚入力の中から記憶情報を選別しています。すべての感覚情報を記憶に留めていては、書庫である側頭葉はすぐにパンクしてしまいます。不要な感覚情報は積極的に捨て去る機構が必要で、その役目を担うのが海馬に投射するセロトニン神経です(セロトニン神経自体は海馬から遠く離れた脳幹にあるので、わざわざ投射という表現をします)。セロトニン神経が活動していると、海馬での記憶情報処理は抑えられる方向になります。セロトニン神経は覚醒時に一定の活動レベルを維持していますが、注意行動に際して一時的に活動を停止する特徴があります。この時、海馬の記憶情報処理に対するセロトニンの抑制作用が消えることになり、この時に入力された感覚情報だけが記憶される方向になります。
このように、セロトニン神経の活動に依存して、情報処理機能が変動することになります。うつ病の人は一般にセロトニン神経の活動が弱っているとされますが、そのため、海馬での記憶情報処理を抑えるセロトニン神経の働きが健常人よりも低下していると考えられます。それは、注意する必要のないようなことでも気になる(記憶に留めてしまう)ということにつながります。逆に、坐禅の呼吸法によってセロトニン神経が鍛えられていますと、些細なことには動じない心が養われることになります。これが高じてくると、あらゆる感覚入力を一切注意することなく受け流せる状態、すなわち無の境地に到達すると考えられます。このように、セロトニン神経の働きは、坐禅の無についてもある程度説明できる可能性があります。」
(C)(考察)
セロトニン神経が弱ると、ささいなことでも記憶し、思いかえして、悩むようになり、うつ病になってしまうのだろう。
注意行動に際して、海馬へ投射しているセロトニン神経の活動が停止するというのは、禅にとって興味ある現象である。坐禅の功夫とは、注意を固着しないように努めているからである。眼耳鼻舌身意の六根を開放して、心を広げた感じで、何もとらわれず、かといって、感覚しないのではなくて、感覚しつつも、特定の感覚(および、思いうかぶ念=意である)に注意を固着せずにいる。ということは、坐禅(および動中の工夫も)の時、海馬へのセロトニン神経からの投射の活動が持続していることになる。あまり、中断しないようにしているということである。これを何年も続けていると、どうなるのか。有田教授は「あらゆる感覚入力を一切注意することなく受け流せる状態、すなわち無の境地に到達すると考えられます。」と言っている。感覚は、受け流すとして、第六「意識」はどうなのか。禅の悟道の人は、「自己を忘れる」という。意識も異なった状況に入るのを体験するのだろう。セロトニン神経は、悟道の時の「意識」にも影響するのだろうか。唯識説が、その状況を詳細に説明している。生理学とこのような禅体験の関係の研究は興味をそそるテーマである。
(15)「ハッとした時、セロトニン神経の活動が止まる」
(A)(要旨)
ハッとして注意を集中することが、セロトニン神経の活動を一時的に止めてしまうという側面に焦点を当てます。「弓と禅」を著したオイゲン・ヘリゲルの体験談です。ヘリゲル氏はドイツの哲学者で明治時代に東北大学の客員教授として数年間日本に滞在しました。日本文化を知る一助にと弓を習うことにした。坐禅のマスターと弓道修行が表裏一体の関係にあることを理解して、坐禅と弓を修行する。師匠は、意外な難題をつきつける。セロトニン神経に関わることだったらしい。似たようなことが剣道にもある。
(B)(HPから)
「坐禅の呼吸法によってセロトニン神経を鍛えると、あらゆる感覚情報を注意することなく受け流せる状態(無の境地)になることを、脳の情報処理機構に関連づけて説明しましたが、ここでは、ハッとして注意を集中することが、セロトニン神経の活動を一時的に止めてしまうという側面に焦点を当てます。これは動物実験のデータですが、我々の経験に照らして見てみましょう。」
「これまで、弓と禅は不可分の関係にあり、その仲介をするのが、呼吸法で活性化されるセロトニン神経であることを、いろいろの側面から説明してきました。これまではセロトニン神経の運動ニューロンへの促通効果が中心でしたが、ここでは、セロトニン神経が一時的に止まる話です。」
「次第に弓の腕が上達していくのですが、修行の最終段階で、弓の師匠は「矢を放つ前に的に意識を集中するな」と難題を突きつけます。的を射るのに、的を見るなということがどうしても納得できません。弓の師匠は言葉で説明せずに、ろうそく一本の暗闇で見事に的を射抜いて見せることで、ヘリゲル氏を納得させます。師匠が言葉で表現できなかった内容は、おそらく、何かに意識を集中する行為が、セロトニン神経の活動を一時的に止めてしまう可能性がある、ということではなかったかと想像されます。的だけではなく、弓を引く体全体に意識を広げた状態を維持できれば、セロトニン神経を高いレベルに保ったままで、弓を射る行為が完結できるわけで、それは、いわゆる真の射に通じるものと思われます。」
「似たようなことが武道の世界で見られます。沢庵和尚が剣の極意について柳生但馬守に送った書簡「不動智神妙録」にも同様の内容のことが書かれてあります。「・・・万一もし一所に定めて心を置くならば、一所に取られて用を欠くべきなり。思案すれば思案にとらるる程に、思案をも分別をも残さず、心をば総身に捨て置き、所々に止めずして、其所々にあって用をば外さず叶ふべし」と。沢庵和尚のいう「心を一所に止めるな」という教えは、剣術の場では注意を何かに集中すべきではない、と置き換えることができます。それは、平常心を演出するセロトニン神経の働きにとって、一つのことに注意を集中することは、心身のスムーズな働きを抑制する効果になる、という生理的データに対応するものと考えられます。」
(C)(考察)
この方法は、実施されているところがある。次の記事を参照していただきたい。これは、中道の実践的智慧から必然的にもたらされる修行法なのであるが、その心の状態は、結果としてセロトニン神経の活動を停止させず、ずっとセロトニン神経を活性化させることになっているらしい。これは興味ある知見である。
最初のうちは、坐った時だけしか実践できないようである。それだと、有田教授のいわれるリズム運動としての坐禅、呼吸法を30分だけ行うことになる。だが、上記のような「歩く坐禅、動中の工夫」をも行うようになると、セロトニン神経の活性化の持続が、一日のうち、3時間(上記のような小さい時間の合計で)もの長い時間、リズム運動を行っているのと同等の効果を生むのではないだろうか。しかも、疲れないのである。もし、通勤時間が往復2時間ある人が、この功夫を行うと、その通勤時間が呼吸法の時間となり、長い通勤時間が苦にならなくなる。往復3時間かかる会社員なら、その時間をこうして使うことができる。
有田教授の知見は、はっと注意を向ける(言葉にするのもそれだろう)と、セロトニン神経の活動が止まる、というのであるが、この坐禅の功夫は、その逆手をとっている。心の注意を固着させないようにしていることで、セロトニン神経の活動を止めない効果を生むのであろう。これを繰り返していると、やがて努力しなくてもセロトニン神経のハイレベルの活性化により、楽に自然に行われていくであろう。「諸悪莫作」という語がある。始めは「もろもろの悪を作ることなかれ」と聞こえて、そのように努力する。だが、努力が繰り返し実践されると、いつか「もろもろの悪を作ることなし」となる。道元禅師は「莫作の力量が現成
する」という。注意を固着しない功夫も同じように、努力から自然へという成長がある。これは、セロトニン神経の高度の活性化なのだろうか。
これを、さらに継続していけば、何かが起きると仏教では教えてきた。自他の苦の克服である。心の病気はみな、全快し、ストレス性の心身症は軽減する(仏教の階位で、苦から解放される段階があるとする。平常心三昧になるからである。この段階になるには、相当の修行が必要である)。セロトニン神経の活性化により、感情の激情を抑制するから、他者をいじめ、苦しめることをしないで人間関係が円満になる。
さらに、実践を継続すれば、解脱(初期仏教)、無生法忍(大乗仏教)、悟り(中国禅、道元、白隠)、である。有田教授の研究から推測するに、悟りには、セロトニン神経の最大限の活性化がからんでいるらしい。その時には、五感覚ばかりではなく、「意識」も違った活動状態になるのだろう。
(以下、続く)
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