「自己洞察瞑想療法」の方法(概要)

社交不安(対人恐怖・視線恐怖)

 社交不安症(対人恐怖症)として、赤面恐怖、視線恐怖、表情恐怖、あがり症、などがある。

 ここは、(C)視線恐怖」について述べる。

視線恐怖の症状

 表情恐怖を克服しようとつとめているうちに、<視線恐怖>段階に進展していく。 次のような特徴がある(3)

治療の基本線

 内沼氏は、治療の基本線として、原点に「人見知り」があり、羞恥があることに注目する(4)
 どうして治すかというと、内沼氏の治療法が、多様であり、簡単には、要約しにくいが、自己洞察瞑想療法で探求する「自己」「こころ」という点で、次の点が関心を引く。

自己洞察瞑想療法(マインドフルネス心理療法)ではどうして治すか

 視線恐怖が、上記のようなものであるから、注意集中法、不要機能抑制法、徹底受容法、価値的行動への意識転向などを訓練する自己洞察瞑想療法で、軽減できる人もいる。
 視線恐怖の場合には、自分の心が、他者の視線、自分の視線の加害妄想・被害妄想に向かい、ついで、起きる感情や身体反応に関心がむかう。 そういう対象ではなくて、目前の価値的行為(仕事、会話など)への注意集中をする訓練を中心として、自動思考(視線、被害に関する妄想)への抑制法、衝動的な逃避の行為抑制、不快事象の受容などの訓練法などで、全般的に、不安への耐性を高める訓練を多くおこなう。たえず心が、価値実現的なもの、ことから離れることを抑制し、離れたら戻る心の功夫を繰り返し実際に行う。マインドフルネス心理療法では、認知傾向の修正ということを論理的に解決するというよりも、反応パターンの修正訓練を重視する。感情、逃避行動を繰り返すという価値崩壊的反応パターンではなくて、価値実現的行為に注意集中する反応パターンを訓練する。自動思考への気づき、中断、抑制も観察を継続して、つらいことを感じつつもとらわれず、価値実現への行動を並行処理するという反応パターンをとるよう日常生活で、訓練する。こういう訓練を重ねると、脳の過敏な部分がおさまり、機能低下している部分が活性化するという脳神経生理的な変化も期待する。

 対人恐怖(視線恐怖も含めて)を軽減・治癒させるための心得は、次のような「自分」「心」を、日常生活の場で観察し、自分の心を実践的に知り、心の用い方を実践的に変えていくのである。  

 マインドフルネス心理療法の技法の実践をして、このように自分の心の様子を正確に知るようになって、さらに、日常生活で、いつも、次のような注意をしていく。

このような独特の本音を観察する。しかし、帯状回情動領域、扁桃体の回路が過敏であるかぎり、理屈でわかっても、不安に負ける。行動的技法やマインドフルネスの技法を多用する。にがてな繰り返しの自動思考を抑制する訓練をして、にがてな対象が起きても観察しつづける訓練をすることによって、前頭前野、帯状回認知領域、海馬、冷静な対処法の想起、効果ある実際行動選択の回路を強化させるだろう。

 上記を達成するために、グループ実習に参加して、呼吸法を行い、室内運動(注意集中しながら行う)を行う。早く治癒させるために、グループ実習の時だけでなく、自宅や職場、移動中にできる課題をたくさん実行する。

 こうして、「自分」、「心」の様子のありのままが、見えるようになり、見た・聞いた・感じた・思いが起こった事実から、みだりに自動思考にうつすことが少なくなり、自分や他者を自分の基準(本音)で評価・批判することを知り、意識を価値的対象に向けるようになることによって、不安感情が少なくなったり、あっても対処行動が変わり、自分の現状・心の反応を苦に思うことが少なくなる。
 自己洞察が十分に実践できるようになり、自信がついてきたら、従来の回避状況、回避場面がまだ、残っている場合、やさしいことから、現実場面に出ていく。クライアントが、予期不安を起し、回避する行動・場所があれば、そのクライアントの場合について、「不安階層表」を作り、やさしいものから実行していく。
 予期不安の思考、不安の感情、身体反応が起きても、すぐに逃避せずに、そういうつらい対象を感じつつも、心の一部で呼吸法などを行いながら、(つらいけれど、逃避せずに)なすべき行動(仕事、勉強、目的地に歩き続ける、人にあう)を続ける。
 こうした自己洞察瞑想法によって、治癒した場合には、「自分」「こころ」についての洞察が深まっているので、他の心の病気(うつ病、パニック障害など)にもなりくくなっている。
 このような指導法が向く人と向かない人がいることは言うまでもない。指導のように、実行できれば、3−6カ月くらいで、かなり軽くなるだろう。もちろん、完治までには、症状の深刻さと、本人のやる気と、この方法への適応性で違いが生じる。上に書いたことは、種々の「はからい」を排除する心得である。だが、指導者の指導なしに行うと、ちがった「はからい」をして、うまく行えないかもしれない。自分のことは、よくわからないものだから、自学自習ではよくわからないかもしれない。何回かは、指導者の指導を受けるのがよいであろう。

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